生涯[編集]
フランスはパリの郊外、サン=モール=デ=フォッセで生まれる。幼少の頃は学業優秀でならすものの、思春期にさしかかる頃から文学にしか興味を示さなくなり、学業そっちのけで、風刺漫画家として活動していた父の蔵書を読み耽るようになる。そのときフランス文学の古典の魅力にとりつかれる。14歳の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分になる。その後、自宅で父親からギリシア語とラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染める。15歳の時に父親の知り合いの編集者のつてをたどって知り合った詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、同じ詩人のジャン・コクトーに紹介される。コクトーはラディゲの才覚を見抜き、自分の友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわる。数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移しはじめ、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかる。
途中、詩集『燃ゆる頬』、『休暇中の宿題』の出版や、いくつかの評論の執筆を行ないつつ、『肉体の悪魔』の執筆を続行。数度のコクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行される。このとき出版社は新人作家対象としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びるが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼んでベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになる。
『肉体の悪魔』で得た印税を元手に、コクトーとともにヨーロッパ各地を転々としながらも、ラディゲはすでに取りかかっていた次の長編『ドルジェル伯の舞踏会』の執筆を続行。同時に自分がこれまで書いた評論などの原稿や詩作を整理しはじめる。1923年11月末頃に突如、体調を崩し腸チフスと診断されピッシニ街の病院に入院。病床で『ドルジェル伯の舞踏会』の校正をしながら治療に専念するが、快方には向かわずそのまま12 月12日に20歳の短い生涯を閉じる。遺作の『ドルジェル伯の舞踏会』は、死後出版された。臨終を看取ったコクトーはラディゲの早すぎる死に深い衝撃を受け、その後およそ10年にわたって阿片に溺れ続けた。
フランス文学界での位置づけ[編集]
ラディゲのフランス文学史全体における位置づけは、作家としての活動期間が短く、作品の本数も少ないせいもあってか決して高くはない。しかし処女小説『肉体の悪魔』は、題材のセンセーショナルさに淫することなく、年上の既婚者との不倫に溺れる自らの心の推移を冷徹無比の観察眼でとらえ、虚飾を排した簡潔な表現で書きつづったことで、今日もなお批評に耐えうる完成度に達している。
『ドルジェル伯の舞踏会』に至っては、ラディゲ自らが参考にしたとしているラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を、高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げていることから、「夭折の天才」の名にふさわしい文学的実力の持ち主であったと評されている[1][2]。
日本におけるラディゲ[編集]
- ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の文体や心理描写は、昭和の日本文学者に様々な影響を及ぼし、1924年(大正13年)のフランス語の原作発表後、1930年(昭和5年)の小林秀雄による作品紹介や、1931年(昭和6年)の堀口大學による翻訳出版を受け、堀辰雄『聖家族』[3]、横光利一『機械』[4]、三島由紀夫『盗賊』[5][6]、『美徳のよろめき』[7] 大岡昇平『武蔵野夫人』[8]などの諸作品に影響を与えた[9]。
- 三島由紀夫は、初期の短編『ラディゲの死』(1953年)で、ラディゲの臨終を看取ったジャン・コクトーのエピソードを作品化している。若き日の三島は、堀口大學訳『ドルジェル伯の舞踏会』(白水社[10])を何度もくり返し読み、「少年時代の私の聖書」だったと述べ、そのエレガンスな文体に惹かれ[5]、ラディゲに自己同一化するほど、多大な影響を与えられたと述懐している[11]。
- 江口清訳で『ラディゲ全集』(各全1巻、中央公論社、雪華社(増補版)、「レーモン・ラディゲ全集」東京創元社)があり、度々改訂され再刊した。『ドルジェル伯の舞踏会』と、『肉体の悪魔』の訳本書誌はリンク先参照。
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