2016年10月14日金曜日

トルストイと白樺派

レフ・トルストイ(1828年 - 1910年)は、帝政ロシアの小説家、思想家である。
フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと
並んで19世紀ロシア文学を代表する文豪。英語では名はレオとされる。
代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、
政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。

(1905年:日露戦争後の第一革命 1917年:二月革命から十月革命へ)

生涯 トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれる。
祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、
1830年、2歳のとき母親を亡くす。1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都である
モスクワへと転居するが、同年6月に父親をなくし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、
父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザンに住む叔母に引き取られ、
1841年にはカザンへと転居した。1844年にカザン大学東洋学科に入学するが、舞踏会などの社交や
遊興にふけって成績はふるわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、
1847年にカザン大学を中退した。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。
1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、
農民に理解されず失敗。モスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ったのち、
1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入される(コーカサス戦争)。この時の体験は後年
『コサック(英語版)』や『ハジ・ムラート(英語版)』や『コーカサスの虜(ロシア語版)』などに
反映された。1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代(英語版)』がネクラーソフの
編集する雑誌『現代人』に発表され、新進作家として注目を集める。
1853年のクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリで激戦の中に身をおく。
セヴァストポリの戦いでの体験は『セヴァストポリ物語(英語版)』(1855)などに結実し、
のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。
退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に
関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行なった。ヴァイマルを訪れた際の逸話が
トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(独: Goethe und Tolstoi, 1923年)に記されている。
パリ滞在中には公開処刑を目撃し、物質文明に失望している。帰国後、アレクサンドル2世に
よる1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みるが、十分には成功しなかった。
1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたる。
強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針であった。 翌1860年から1861年に、
教育問題解決のため再び西欧に旅立った。この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、
新作『レ・ミゼラブル』を激賞している。他にもディケンズやツルゲーネフを訪問した。
1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、
地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職する。同年、活動を危険視した官憲の妨害により
学校は閉鎖のやむなきに至ったが、教育への情熱は生涯変わらなかった。同年34歳で
18歳の女性ソフィア(英語版)と結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を
定めることになる。夫婦の間には9男3女が生まれた。幸福な結婚生活の中で世界文学史上に
残る傑作が書かれた。トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を
現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義
(仏: Realisme)の手法を用いている。
『コサック』(1863年)では、ロシア貴族とコサックの娘の恋愛を描きながら、
コサックの生活を写実主義の手法によって描写した。1863年7月18日にヴァルーエフ
指令が公布されてウクライナ語での言論活動が禁じられた為、コサックが母語で文筆活動を
行なえない皮肉な状況になった。
『戦争と平和』(1864-69)はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々(1812年の祖国戦争)
を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物が写実主義の手法によって
みな鮮やかに描き出されている。『戦争と平和』の主人公ピエール・ベズーホフにも
トルストイ自身の思索が反映している。『戦争と平和』で、トルストイはロシアの貴族社会のパノラマを描き出した。
『アンナ・カレーニナ』(1873-77)は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、
『戦争と平和』に比べより調和に富み、構成も緊密である。『アンナ・カレーニナ』では、
社会慣習の罠に陥った女性と哲学を好む富裕な地主の話を並行して描くが、地主の描写には
農奴とともに農場で働き、その生活の改善を図ったトルストイ自体の体験が反映している。
小説の主人公アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリア(ロシア語版)で、
トルストイは1868年に出会っている。パンジーの花飾りや真珠のネックレスを描いた彼女を
描写する一節は、トルストイ博物館に収蔵される肖像画と全く同じである。トルストイは
また社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。
援助資金を調達するために作品を書いたこともある。一方『アンナ・カレーニナ』の執筆とほぼ並行して、
初等教育の教科書作成にも力を注いでいる。

世界的名声を得たトルストイだったが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに
苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、
山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後
作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった(トルストイ運動)。
その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を
否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていた
ロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。
また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。
そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた。
上記の「回心」後は、『イワンのばか』(1885)のような大衆にも分かりやすい民話風の作品が書かれた。
戯曲『闇の力(英語版)』(1886)は、専制政治強化を主導していたコンスタンチン・ポベドノスツェフの
圧力によって1902年まで公的な上演が禁止されていた。しかし、実際には地下活動によって数回、
非公式の形で上演された。そういった圧力が強まる中で『人生論』(1887)など、
道徳に関する論文が多くなる。小説も教訓的な傾向の作品が書かれるようになる。
『イワン・イリイチの死(英語版)』(1886年)、『クロイツェル・ソナタ』(1889)などがそれにあたる。
『イワン・イリイチの死』では、死を前にした自身の恐怖を描き出している。
1891年から1892年にかけてのロシア飢饉(英語版)では、救済運動を展開し、世界各地から
支援が寄せられたが、政府側はトルストイを危険人物視し、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった。
『神の国は汝らのうちにあり(英語版)』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。
『芸術とは何か(英語版)』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のための
ものだとして、その意義を否定した。
その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない[16]。 一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られる。またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒であった。瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。
作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった[17]。 1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判した。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[18]。 その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[19]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅(ru))で下車した。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがある。

トルストイは存命中から人気作家であっただけでなく、ガルシン、チェーホフ、コロレンコ、ブーニン、
クプリーンに影響を与えた。トルストイの影響は政治にも及んだ。ロシアでの無政府主義の展開は
トルストイの影響を大きく受けている。ピョートル・クロポトキン公爵は、ブリタニカ百科事典の
「無政府主義」の項で、トルストイに触れ「トルストイは自分では無政府主義者だと名乗ら
なかったが……その立場は無政府主義的であった」と述べている。
ソ連時代も共産党から公認され、その地位は揺るがなかった。 ウラジーミル・レーニンが愛読者で
あったことは知られている。トルストイは、革命後ソ連で活動したミハイル・ショーロホフ、
アレクセイ・トルストイ、ボリス・パステルナークをはじめ多くの作家に影響を与えている。
またアメリカで活躍したウラジミール・ナボコフはトルストイの特異な技法に注目しながら、
ロシア作家中で最高の評価を与えている。
宗教思想について本格的に論じられるようになるのはペレストロイカ以降である。
また、トルストイの教科書をもとにした教科書がペレストロイカ後に出版されている。

西欧においては1880年代半ばには大作家としての評価が定着した。またロマン・ロラン、
トーマス・マンらがトルストイの評伝を書き、マルタン・デュ・ガールが1937年ノーベル賞
受賞時の演説でトルストイへの謝意を述べるなど、その影響は世界各国に及んでいる。
一方トルストイの非暴力主義にはロマン・ロランやガンディーらが共鳴し、
ガンディーはインドの独立運動でそれを実践した。
 
( 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年慶応3年) - 1916年大正5年)
 永井荷風 1879年明治12年) - 1959年昭和34年)
 谷崎潤一郎 1886年明治19年) - 1965年昭和40年)
 芥川龍之介 1892年明治25年) - 1927年昭和2年) 晩年には志賀直哉の
     「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある
     自己の文学を完全否定する 
 川端康成 1899年明治32年) - 1972年昭和47年)
 松方コレクションは、実業家松方幸次郎大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)
 にかけて築いた美術品コレクションのこと。近代絵画と浮世絵が中心。
 1917年 ロシア革命成功 1918年 ドイツ革命挫折 
 1919年 ワイマール共和国とコミンテルンの成立
 1923年 ヒトラーのミュンヘン一揆 1923年 関東大震災 1929年 世界第恐慌
 1931年 満州事変 1932年 515 1936年 226 )

白樺派の概略 大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、
理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって
1910年代の文学の中心となった。1910年刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。
そのきっかけは1907年10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼の旅館東屋で武者小路実篤と
志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している。
学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、雑誌刊行の準備を
整えたという。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも
『白樺』以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。
彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する
武士像や明治の精神への反発からである。
さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号・俳号の類を用いなかった。
特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、
その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。
写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、
郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、
雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。
武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。多くは学習院出身の上
流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。

2016年10月6日木曜日

ロシア革命と関連するドイツ革命

前史 19世紀に移ると、アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加。
1812年のナポレオン1世のロシア遠征に際しては、これを撃退し、1814年のウィーン会議後には
神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。
次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。国内の不満をそらすために、
対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、
「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。しかし、聖地管理権を
めぐってオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、
「南下政策」は頓挫する(東方問題)。
クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に
「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。解放された農奴たちは農村で小作農となり、
あるいは都市に流入して労働者となった。ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。
その一方、清朝との間ではアイグン条約を1858年に、北京条約を1860年に締結、
極東での南下政策を推進した。
さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。
しかし、この運動は広い支持を農民から得られなかったことから、
ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が
暗殺されることになった。

(ドスト流刑:1849~1854 死の家の記録と虐げられた人々:1860 
戦争と平和:1864~69 罪と罰:1866 白痴:1868 悪霊:1871
アンナ・カレーニナ:1877 カラマーゾフ:1880 皇帝暗殺:1881
イワンイリイチの死:1885 クロイツエルソナタ:1889
復活:1889~99 チェーホフ死亡:1904)

定義 1905年に発生した血の日曜日事件を発端とするロシアの革命である。第1次革命とも言い、
第2次革命(第二革命)は二月革命を指す。
特定の指導者がいたわけではなく、原因や目的は単純なものではなかったが、
反政府運動と暴動がロシア帝国全土に飛び火した。全国ゼネスト、戦艦ポチョムキンの
反乱などで最高潮に達したが、憲法制定や武力鎮圧で次第に沈静化し、
ストルイピン首相の1907年6月19日のクーデターで終息した。

背景[編集]
騒乱がロシア帝国では日常的なものになっていたとはいえ、1905年以前の数十年間は、
深刻な騒動は、ほとんどなかった。議論を呼んだ1861年のアレクサンドル2世の農奴解放以降
政治に対する不満は増大していった。農奴解放は貴族への多年にわたる「賠償金」と
わずかばかりの法律上は認められた人民の自由により危険なくらいに不完全なものであった。
人民の権利は、依然として階級ごとに厳格に規定された義務と規則に縛られていた。
農奴解放はロシアが封建的専制政治から市場が支配する資本主義にゆっくりと移行する
1860年代に唯一始まった政治・法律・社会・経済の変動である。一連の改革は、
経済・社会・文化を構造的に解放したとはいえ、政治体制に変更は見られなかった。
改革を試みることは、君主制と官僚制度に厳しく阻害された。
例えば40以下の自治体で行うと合意した開発さえ制限され、
実施されたのは50年も経ってからであった。期待が膨らんでも実行過程で制約を受け、
結局反乱に発展するような不満を生み出して行った。

反乱に加わる人々に「土地と自由」の要求は革命でこそ実現するという考えが生まれた。
革命運動は専らインテリゲンツィアの活動から生まれたと言っても良い。
この運動はナロードニキと呼ばれた。この運動は個別に行われたものではなかったが、
各々の主張により様々な集団に分かれていった。初期の革命思想は、貴族のゲルツェンの
農奴解放支援とゲルツェンのヨーロッパ社会主義とスラブ的農民共同体に起源がある。
ゲルツェンはロシア社会は依然として産業化が未発達であると言い、革命が起きてもプ
ロレタリアートがいないために革命による変動の基本はナロード(訳注:人民)と
オブスチナ(原注:農村共同体)であるとする思想に共鳴した。
他の思想家は、ロシアの農村は非常に保守的で、他の誰でもない家族や村、共同体を
大切にしていると反論した。こうした思想家は、農民は自分達の土地のことしか考えず、
民主主義や西洋の自由主義には深く反対していると考えた。
後にロシアの思想は、後の1917年の革命で使われる概念である革命の
指導的階級という考えに引き寄せられていった。

1881年3月1日(旧暦)、アレクサンドル2世は土地と自由の分派である人民の意志の放った
爆裂弾で暗殺された。極端に変革を望まないコンスタンチン・ポベドノスツェフから深く
薫陶を受けた大保守主義者のアレクサンドル3世が即位した。
アレクサンドル3世の下でロシアの政治警察部門(オフラーナまたは、オフラーンカ)は
事実上国中の革命運動と初期の民主化運動の両方の抑圧を行った。オフランカは革命集団を
投獄したり追放することで弾圧した。革命組織に属する者は、しばしば抑圧を逃れて移住した。
西欧に移住したロシア人思想家は、初めてマルクス主義に触れることになった!

最初のロシア人マルクス主義団体は、1884年に結成されたが、1898年までは小規模な集団であった。
1880年代と90年代の社会の停滞が齎した明確な違いの中で、当時のロシアの低い技術水準と
関連する工業化において大きな近代化が進行した。この成長は続き、シベリア鉄道建設と
「ヴィッテ体制」による改革で1890年代に急成長した。セルゲイ・ヴィッテは1892年に
大蔵大臣になり、絶え間ない財政赤字に直面した。経済を押し上げ外国の投資を呼び込むことで
歳入増を図った。1897年、ルーブリを金本位制とした。経済成長はモスクワ、サンクトペテルブルク、
ウクライナ、バクーなどの数地区に集中した。およそ3分の1は外国からの投資で、
外国の投資は活気にあふれていた。
1905年までに革命集団は1880年代の圧制の打撃から回復していた。マルクス主義の
ロシア社会民主労働党は1898年に結成され、1903年、メンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂した。
ヴラディーミル・ウリャノフ(レーニン)は『何をなすべきか』を1902年に出版した。
社会革命党は1900年にハリコフで創設され、「戦闘組織」は1905年以降も有名な政治家を
多く暗殺した。標的になった人に共に内務大臣で1902年に暗殺されたドミトリー・シピャーギンと
後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる。こうした暗殺で警察に更に強権を与えることになった。
日露戦争は当初は広く支持されたものの、既に戦争は失敗であり戦争の目的も不明確なものだと
いう考えが人民に広まっていた。農奴解放による深刻な不公平は、再検証されることになり、
農民は国中のあらゆる農園を焼き討ちするようになっていた。1890年代の好景気は、停滞期に入り、
労働者は最悪の状況に不満を口にするようになった。1903年、西部のロシア軍の3分の1が、
「鎮圧活動」に従事していた。
ニコライ2世は1894年に皇帝(ツァーリ)に即位した。先帝アレクサンドル3世同様政治改革を
一切認めることはなかった。

革命か?
1905年1月22日(旧暦1月9日)、「血の日曜日」として知られるこの日、サンクトペテルブルクで
デモ行進が行われた。当時サンクトペテルブルクを離れていたツァーリの知らないところで
冬宮に軍隊が配置された。死者の数についてはさまざまな推計があるが、一般には1000人前後が
殺されたり負傷したと見られている。
この事件はロシアの多くの団体が抵抗運動を始めるきっかけになった。それぞれにそれぞれの
目的があり、同様の階級の間でさえ、全体の方向性はなかった。主な活動家は、農民(経済問題)、
労働者(経済問題と反工業化)、インテリゲンツィアと自由主義者(民権)、
軍隊(差別と経済問題)、小規模な全国組織(政治問題と文化活動における自由)であった。

農村の騒乱
農民の経済状態はすさまじい状態だったが、統一した指導もなくそれぞれの運動体は
それぞれの目標に向かっていた。騒乱は年間を通じて拡大し、初夏と秋に隆盛になり、
11月に頂点に達した。小作人は小作料の低減を求め、作男は賃上げを求め、土地管理人は
所有地拡大を求めた。土地の強奪(時に暴力や焼き打ちが行われた上で行われた)や略奪、
森林での違法な狩猟と伐採などが行われた。サマーラでは農民が自分たちの共和国を作り、
政府軍に鎮圧されるまで違法な伐採と分配を行った。行動に現れる憎悪の程度は、
農民の状態に直接関連があり、グロドノとカウナス、ミンスク近郊の幾分状況に恵まれた
地域ではほとんど破壊活動がなかった一方で、リヴォニヤとクールラントの無産大衆は
襲撃と焼き打ちを行った。全体として3228件の騒乱を鎮めるのに軍隊の投入が必要で、
地主は2900万ルーブリの損害を被った。
ロシアの急進的な政党は農村の騒乱に急速に浸透して行った。5月の全露農民連合結成に繋がる、
農民の活動を組織し調整する協議会を結成する動きがあった。この協議会は地域代表からなり、
社会革命党と緊密な関係があったが、現実的で首尾一貫した要求を打ち出せなかった。
1905年の事件後、農村の騒乱事件は1906年に再発し、1908年に終息した。政府が譲歩したことは、
土地の再分配を政府が支持したと見られ、そのために土地管理人と「農民でない」地主を追い出す
襲撃が起きた。全国的な土地再分配はすぐにでも行われると考えられ、農民は再分配は既定のことの
ように捉えた。農民は酷く抑圧された。

ストライキ
抵抗運動に参加する労働者の手段は、ストライキであった。血の日曜日事件が起きるとすぐに
サンクトペテルブルクで大規模なストライキが起き、40万人を越える労働者が、1月末までに参加した。
このストはすぐにポーランドやフィンランド、バルト海地域の工業地帯に波及した。
リーガではデモ参加者80人が1月13日(旧暦)に殺され、数日後ワルシャワでは100人を越える
スト参加者が路上で射殺された。ストライキは2月までにカフカスに、4月までにウラル地方以遠で
起きるようになった。3月、学生がストライキに共鳴したために高等教育機関は全て強制的に
年内は閉鎖されることになった。10月8日(旧暦)の鉄道労働者のストライキは、あっという間に
サンクトペテルブルクとモスクワのゼネラル・ストライキに発展した。
短期間だが200を超える工場でストライキを組織する労働者協議会サンクトペテルブルクソビエト
(大半が参加者がメンシェヴィキ)が結成されることになった。10月13日(旧暦)までに200万人を
超える労働者がストライキに参加したが、鉄道労働者はほとんどいなかった。

暗殺
1901年から1911年にかけて革命運動により1万7000人(1905年から1907年は9000人)が殺された。
 警察の統計によると、1905年2月から1906年5月にかけて殺された人数はこうなっている。
総督、知事、市長 8人
副知事とグベルニヤ(訳注:当時の行政区分のひとつ)議員 5人
警察本部長官 21人
国家憲兵将校 8人
将軍 4人
将校 7人
様々な階級の警察官 846人
秘密警察(オフランカ)警察官 18人
神父 12人
公務員 85人
地主 51人
工場所有者 54人
銀行家と資産のある商人 29人
社会民主労働党、社会革命党、アナーキストの武装集団と「一匹狼のテロリスト」による暗殺が行われた。
社会革命党の「戦闘組織」により1905年以降有名な政治家が多く暗殺され、この中に内務大臣が二人
(ドミトリー・シピャーギン(1902年)と後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる

結果
政府の反応は、非常に早かった。ツァーリは大きな変革は拒否する考えで、1月18日(旧暦)、
スヴャトポルク=ミルスキーを解任し、後任にブルイギンを任命した。叔父でモスクワ総督の
セルゲイ大公が2月4日(旧暦)に暗殺されると、多少の譲歩に応じた。2月18日(旧暦)、
ツァーリはブルイギン宣言を発した。この宣言は「ツァーリを輔弼する」議会創設、信教の自由、
ポーランド人がポーランド語を使用すること、農民の弁済額の減額を認めるものであった。
上記の譲歩をしても秩序の回復はできず、2月6日(旧暦)、ツァーリの諮問に応じるドゥーマの
創設に応じた。ドゥーマの権限が余りに小さいことと選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、
騒乱は更に激化し、10月にはゼネストにまで発展した。

10月14日(旧暦)、十月宣言をヴィッテとアレクシス・オボレンスキイが執筆し、ツァーリに提出した。
宣言は9月のゼムストヴォ(訳注:ロシアの地方議会)の要求(基本的な民権の承認、政党結成の許可、
普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。ツァーリは3日かけて議論したが、
虐殺を避けたいツァーリの意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、
遂に1905年10月30日(旧暦10月17日)に宣言に署名した。ツァーリは署名したことを悔しがり、
「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と言った。
宣言が発布されると、あらゆる主要都市で宣言を支持する自発的なデモが起こった。
サンクトペテルブルクなどのストライキは、正式に終了するか急速に消滅した。
恩赦も行われた。譲歩は騒乱に対する新たな残忍な反動を伴っていた。公然と反ユダヤの攻
撃を行う保守層の逆襲もあり、オデッサでは一日で約500人が殺された。ツァーリ自身は
革命運動に参加した90%はユダヤ人だと言った。
暴動はモスクワで勃発したものを最後に12月に終息した。12月5日から7日まで(旧暦)ボリシェヴィキは
労働者に対する脅迫と暴力でゼネストを強行した。政府は7日に派兵し、市街戦が始まった。
1週間後、セメノフスキイ連隊が展開し、デモを粉砕するために大砲を使用し、
労働者が占拠する区域を砲撃した。12月18日(旧暦)、約1000人が死亡し、都市が廃墟になって、
ボリシェヴィキは投降した。その後の報復で数知れぬ人々が殴打され殺された。

波及
結成された政党にリベラルな知識人政党立憲民主党(カデット)、農民を指導者とする
労働団(トルドヴィキ)、自由主義には消極的な10月17日同盟(オクテャブリストゥイ)、
改革に好意的な地主連合があった。
25歳以上の市民を4階層に分けて選挙権を認める選挙法が1905年12月に公布された。
ドゥーマの最初の選挙は、1906年3月に実施され、社会主義者とエス・エル、ボリシェヴィキが棄権した。
第一ドゥーマの議席は、カデットが170、トルドヴィキが90、無所属の農民代表が100、
様々な傾向を持つ民族主義者が63、オクテャブリストゥイが16であった。
1906年4月、政府は新しい秩序に制限を加える基本法を公布した。ツァーリは専制君主として
行政、外交、教会、軍事を完全に支配するものと確認された。ドゥーマはツァーリが
任命する評議会より下位の会議とされた。ドゥーマは法案を承認しなければならず、
評議会とツァーリが法であり、「例外として」政府はドゥーマで審議させることができた。
同じ4月にロシア財政の建て直しのために約9億ルーブリの借り入れ交渉を終えると、
セルゲイ・ヴィッテは辞任した。ツァーリはヴィッテに「不信感」を抱いたようである。
後年「ロシア帝国末期の最も傑出した政治家」として知られるヴィッテの後任は、
皇帝の腰巾着イワン・ゴレムイキンである。
更に自由化の要求が高まり活動家に向けた綱領により第一ドゥーマは1906年7月にツァーリの命令で解散した。
カデットが望み政府が恐れた割には民衆からの広汎な反応はなかった。しかし、
ピョートル・ストルイピン暗殺未遂でテロリストに対する公開裁判が始まり、
8ヶ月以上に亘って1000人を超える人々が絞首刑となった(絞首台はストルイピンのネクタイとあだ名された)。
本質においてロシアは変わらず、権力はツァーリが握り続け、富と土地は、貴族が所有し続けた。
しかし、ドゥーマの創設と弾圧は、革命団体を崩壊させることに成功した。
指導者は収監されるか亡命し、組織は混乱し、迷走した(ドゥーマに参加するかしないかしかなかった)。
上記により起きた分裂は、第一次世界大戦に触発されるまで個人で活動する過激派のまま続いた。

フィンランド
フィンランド大公国では1905年のゼネラル・ストライキにより4階級の議会が廃止されることになり、
近代的なフィンランド議会が創設された。1899年に始まったロシア化政策が一時停止されることになった。
フィンランドでは前年1904年6月17日に、フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが暗殺されるなど
民族主義が高まっており帝政への反発が広がっていた。

前史[ソースを編集]
ソビエト連邦
ソビエト連邦の国章
最高指導者
レーニン ・ スターリン
マレンコフ ・ フルシチョフ
ブレジネフ ・ アンドロポフ
チェルネンコ ・ ゴルバチョフ
標章
ソビエト連邦の国旗
ソビエト連邦の国章
ソビエト連邦の国歌
鎌と槌
政治
ボリシェヴィキ ・ メンシェヴィキ
ソビエト連邦共産党
ソビエト連邦の憲法・ 最高会議
チェーカー ・ 国家政治保安部
ソ連国家保安委員会
軍事
赤軍 ・ ソビエト連邦軍
前史

年間平均ストライキ発生数
1862?9   6
1870?84   20
1885?94   33
1895?1905 176

ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に
対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、
社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を
維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。1881年には
皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。社会不安と急速な
工業化の進展によってストライキの発生数は急速に増加していた。
日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮を
ツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。
この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市で
ソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の
影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、
他艦により鎮圧された。同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。
また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、
戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリや
オデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。
なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。
こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、
ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。
1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、
強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や
第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。スト発生数はさらに
増加を続け、1912年の2032件から、1914年の前半だけで3000件を超えるまでになった。
一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、
1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらの
メンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党
(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃
(1915年 - 1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。
第一次世界大戦はロシア不利のまま長期間に及ぶようになり、ロシア経済の混乱と低迷も
一層ひどくなっていった。食糧不足が蔓延し、ストが多発するようになっていった。
また、ドゥーマも皇帝の干渉に対して不満を表明するようになり、1915年にはカデットや十月党、
進歩党など国会の4分の3の議員によって進歩ブロックが結成され、対立姿勢を強めていった。
1916年12月30日には、宮廷に取り入って大きな権勢をふるっていた怪僧グリゴリー・ラスプーチンが
ユスポフ公とドミトリー大公によって暗殺された。

(ゴーリキー:1868年 - 1936年 ショーロホフ:1905年- 1984年 パステルナーク:1890年 - 1960年
ブーニン:1870年 - 1953年 ナボコフ:1899年 - 1977年 ソルジェニーツィン:1918年- 2008年)

二月革命
革命の勃発と二重権力の成立 1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせて
ヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした
「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、
数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。
しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者や兵士は
メンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。
メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた。一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長
である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会
をつくって新政府の設立へと動いた。
3月1日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第一号」を出した。
「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」
などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。
ドゥーマ臨時委員会は3月2日、カデットのリヴォフを首相とする臨時政府を設立した。
この臨時政府には、社会革命党からアレクサンドル・ケレンスキーが法相として入閣したものの、
そのほかはカデットや十月党などからなる自由主義者中心の内閣であった。
臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に
皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日の3月3日にこれを拒否し、帝位につくものが
誰もいなくなったロマノフ朝は崩壊した。
ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命は
ブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、
臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。

四月危機
臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。
この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と
題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって
対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」
「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、
臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。
ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」
(3.27声明)を発表した。「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその
民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎
とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている
義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」
ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた。
ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した。しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書」を付し、
その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、
と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、
強まっただけである」と解説した。
この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに
労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は
辞任を余儀なくされた。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。
5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、
ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった。

レーニンの「四月テーゼ」
ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、
ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は
方針を明確に定めることができなかった。3月12日に中央委員のカーメネフとスターリンが流刑地から
ペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと
変化した。機関紙『プラウダ』には「臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して
革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される」「軍隊と軍隊とが対峙しているときに、
武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、
銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう」などといった論説が掲載された。
これに対し、4月3日に(敵方のドイツの支援で)亡命地から帰国したレーニンは、
「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と
題したテーゼ(四月テーゼ(ロシア語版、英語版))を発表して政策転換を訴えた。その内容は、
臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、「祖国防衛」を拒否すること、
全権力のソヴィエトへの移行を宣伝することなどであった。
「ミリュコフ覚書」が引き起こした四月危機の影響もあり、この四月テーゼは4月24日から29日にかけて
開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった。

攻勢の失敗と七月事件 第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、
前線において大攻勢を仕掛けた。将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。
しかし6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。
攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。7月3日、
ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう
求めるための武装デモを行うことを決定した。他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに
武装デモが始まった(七月事件(英語版))。しかしソヴィエトの中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否した。
7月4日になるとデモの規模はさらに拡大したが、政府とソヴィエト中央を支持する部隊が
前線からペトログラードに到着し、力関係が逆転した。武装デモは失敗に終わった。
デモを扇動したのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。
しかし抑えきれないまま始まってしまったデモを支持する以外なくなった。デモが失敗に終わると
一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。
トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。
デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。
レーニンは、この7月事件により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、
と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。
このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起に
よる権力奪取を意味した。ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会で
レーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。

コルニーロフの反乱 第一次連立内閣は7月8日にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、
同月24日にケレンスキーを首相とする第二次連立内閣が成立した。この連立内閣は社会革命党と
メンシェヴィキから多くの閣僚が選出され、カデットからの閣僚は4名にすぎないなど、
社会主義者が主導権を握る構成となった。しかしケレンスキー内閣の政策はリヴォフ内閣と
ほとんど変わったところのないものだった。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、7月事件後の
弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府の支持基盤はきわめて弱いものとなった。
7月18日に軍の最高総司令官に任命されたラーヴル・コルニーロフは、二月革命以後に獲得された
兵士の権利を制限し、「有害分子」を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。
保守派の支持を得ようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求をすべて受け入れることはできず、
両者は対立することになった。8月24日、コルニーロフはクルイモフ将軍に対し、ペトログラードへ
進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。
翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。カデットの閣僚はコルニーロフに連帯して辞任し、
軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して無条件支持を
要請した。8月28日、ソヴィエトはこれに応じて対反革命人民闘争委員会をつくった。
弾圧を受けてきたボリシェヴィキも委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。
ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、
将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱
(ロシア語版、英語版)は失敗に終わった。クルイモフは自殺し、コルニーロフは9月1日に逮捕された。

十月革命 カデットの閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキーは9月1日に
5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。ソヴィエトは
9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との
連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、
という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの
連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府は
結局はカデットも含むものになった。ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへの
支持が急速に高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトで
ボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、
レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は
10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。
一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。
これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、
武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、
権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、
あからさまに武装蜂起の方針を認めた。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、
委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなく
ソヴィエトの指示に従うことを決めた。10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊に
よってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、
軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、
10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、
ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した。
このとき臨時政府側には冬宮が残されるばかりとなっていたが、情勢の不利を悟ったケレンスキーは
25日早朝に冬宮から脱出しており、残された臨時政府の閣僚たちはコサックや士官学校生、女性部隊と
いった残存兵力とともに立てこもりながら無意味な議論を続けるばかりだった。
やがてボリシェヴィキ側の攻勢が始まり、冬宮は26日未明に占領された。
蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。この大会においては
社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席していたため、残った社会革命党中央派・左派に
対してボリシェヴィキは多数派を占めていた。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。
さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、
地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府として
レーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。
冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第三軍団長クラスノフの協力をとりつけ、
その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。ペトログラード市内でも
社会革命党やメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、
10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、
ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。
モスクワでは10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の
側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が
優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。
11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。
ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、
左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、
12月9日に両者の連立政府が成立した。

憲法制定議会の解散 二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を
約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に
対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を
実施することを決めた。しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで
410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった。
レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会は
ブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態である
ソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の
承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、
十月革命を否定する姿勢を示した。
翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが
提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。
1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。

ブレスト=リトフスク条約 全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した「平和についての布告」は
フランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツや
オーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。
交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。
この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、
革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリンのグループ、
ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、
そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。
最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が
1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開し、
ロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。
3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約に調印した。
このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、
ポーランド、ウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。
のちに、同年11月にドイツ革命が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、
ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。
左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した。

内戦[ソースを編集]
詳細は「ロシア内戦」を参照
1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こし[14]、これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵した(シベリア出兵)。イギリス軍は白海沿岸の都市を占領した。サマーラでは社会革命党の憲法制定議会議員が独自の政府、憲法制定議会議員委員会(Комуч、コムーチ)をつくり、さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。こうした反革命軍は、総称して白軍と呼ばれたが、緑軍のようにボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も存在した。白軍の有力な将帥としては、アントーン・デニーキン、アレクサンドル・コルチャーク、グリゴリー・セミョーノフなどが知られる。ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約締結後に軍事人民委員となっていたトロツキーの下で赤軍を創設して戦った。
この内戦を戦い抜くため、ボリシェヴィキは戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策を取った。これはあらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除くすべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などからなっていた。この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わり、ロシア経済は壊滅的な打撃を受けた。農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こした。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになった。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んでいた[15]。
この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めた。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化された。革命直後に創設されていた秘密警察のチェーカーは裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。1918年8月30日には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こし、これをきっかけに政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。一方、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺された。
一時期白軍はロシアやウクライナのかなりの部分を支配下においたものの、内紛などによって急速に勢力を失っていき、次々とソヴィエト政府側によって鎮圧されていった。デニーキンの敗残兵をまとめ上げ、白軍で最後まで残ってクリミア半島に立てこもっていたピョートル・ヴラーンゲリ将軍率いるロシア軍も、1920年11月のペレコープ=チョーンガル作戦で破れて制圧され[16]、内戦はこれをもって収束し、ソヴィエト政府側の勝利に終わった。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922年に撤退した。また、この内戦の過程において、白軍に参加した、あるいは赤軍やソヴィエトに反対した人々が国外に大量に亡命し、こうした亡命者は白系ロシア人と呼ばれるようになった。
内戦が終わっても戦時共産主義体制はしばらく継続しており、これに反発して起きる反乱もやむことがなかった。1921年には軍港都市クロンシュタットで海軍兵士によるクロンシュタットの反乱が起き、ボリシェヴィキによって鎮圧されたものの、同年3月21日に経済統制をやや緩めたネップ(新経済政策)が採択され、軌道修正が図られるようになった。このネップ体制下で、農業・工業生産は回復にむかった。
最初の憲法[ソースを編集]
1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第五回全ロシア・ソヴィエト大会は最初のソヴィエト憲法を採択した。憲法の基本的任務は「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」とされた(第9条)。また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議にも立法権を認めた。
この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。1922年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。
定義と影響[ソースを編集]
ロシア革命は、少なくとも最初に勃発した二月革命の時点においては自然発生的な革命であり、どの政治勢力も革命の展開をリードしているわけではなく、むしろ急展開を急ぎ追いかける形となっていた。しかし成立した臨時政府が情勢をコントロールできない中、レーニン指導下のボリシェヴィキが情勢を先導して行くようになり、十月革命は逆にボリシェヴィキが徹頭徹尾主導権を握って自力で起こしたものであり、革命というよりはむしろクーデターというべき性格のものだった。
ともあれ十月革命によって成立したボリシェヴィキ主導政権は世界初の社会主義国家であり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望んでおり、1919年3月2日にボリシェヴィキ主導のもとで結成されたコミンテルンもヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとしていた。しかしこうした試みは成功せず、一国社会主義論の登場とともにコミンテルンの役割は変容していった。


ドイツ革命(ドイツかくめい、独: Novemberrevolution, 英: German Revolution of 1918?19)は、
第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、
その帰結としてカイザーが廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。
これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。

休戦交渉と皇帝退位問題 ドイツ参謀本部が戦争の短期終結を目指して立案したシュリーフェン・プランは、
フランス軍との戦線全域に渡って泥沼の塹壕戦に陥ったことで挫折した。国内で独裁的地位を固めた軍部は、
この膠着状態を破り、継戦能力を維持するために、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制、
エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の提唱した、いわゆる「総力戦」体制の確立に突き進んだ。
これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、
戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや
暴動が頻発した。1917年3月12日に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、
1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。また一時ドイツと連合国の仲介役に
当たっていたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」に代表される
公正な講和のアピールは[1]、政治家にも和平への道を選択させることとなった。
1918年3月からの西部戦線におけるドイツ軍の攻勢は失敗し、8月には連合国軍の反撃により逆に
戦線を突破され始めた。ドイツの敗北が決定的となったことで、ベルギーのスパにおかれていた
大本営は9月29日、ウィルソン大統領を仲介役とする講和交渉の開始を決定した。
この決定を受けて首相ゲオルク・フォン・ヘルトリングは辞任し、議会多数派のドイツ社会民主党
(SPD)の支持を受けた自由主義者のマックス・フォン・バーデン大公子内閣が成立した。
マックス大公子はアメリカと連絡を取り、1918年10月にアメリカを介した連合国との
講和交渉が開始された。アメリカ側は前述の十四カ条の平和原則に基づく講和の条件として、
ドイツ帝国の専制色を解消することを求めた。これに反発したルーデンドルフが交渉継続に
反対するという事態が起きたが、マックス大公子は皇帝ヴィルヘルム2世に迫ってルーデンドルフを解任、
後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。その後憲法改正による議院内閣制や普通選挙などの
導入が行われたが、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事から
もたらされた。ウィルソン自身は皇帝の退位を求めたことはなく、また想定もしていなかったが、
10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになった。
この情勢の動きを見てマックス大公子の政府も皇帝退位の方針を固めつつあったが、
ヴィルヘルム2世とその周辺はあくまで退位に反対した。10月29日に皇帝はベルリンを離れて
大本営のあるスパに向かい、後を追ってきたマックス大公子の退位要請も拒絶した。

レーテ蜂起  1918年10月29日、ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵達
約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った。
この出撃は自殺的な無謀な作戦であったとされるが、実態には論評の余地があるとされる。
海軍司令部は作戦中止をもたらしたサボタージュの兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。
11月1日、キールに駐屯していた水兵たちが仲間の釈放を求めたが、司令部は拒絶した。
11月3日には水兵・兵士、さらに労働者によるデモが行われた。これを鎮圧しようと
官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ
(評議会、ソビエトとも訳される)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した
(キールの反乱(英語版))。レーテは政府が派遣した社会民主党員グスタフ・ノスケを
総督として認め、反乱は一応鎮静化した。しかしこの後キールから出た水兵や労働者によって
事件はたちまち広まり、5日にはリューベック、ブルンスビュッテルコーク(英語版)、
6日にはハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、7日にはハノーファー、
オルデンブルク、ケルン、8日には西部ドイツすべての都市がその地に蜂起したレーテの支配下となった。
11月7日から始まったバイエルン革命(後述 ミュンヘン革命とも)では
バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制廃止の先例となった。
このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、
11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、
ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、
ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、
多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。

人民委員評議会政府成立 11月9日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民の
デモで埋め尽くされた。これに対してマックス大公子は、革命の急進化を防ごうと独断で
皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。
しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。
この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、
エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を
乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した(ドイツ共和国宣言(ドイツ語版))。
その日の内にヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、後日退位を表明した。
11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府
「人民委員評議会(ドイツ語版)」が樹立された。一方、ベルリンの労兵レーテは
人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテ
(ドイツ語版)が半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会(ドイツ語版)を選出し、
ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた。
同夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、
グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは
革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの
目的達成のための実働部隊を軍部が提供することを約束した協定が結ばれた
(エーベルト・グレーナー協定(ドイツ語版))。また軍は旧来の将校組織を温存する保障を獲得し、
人民委員評議会政府を支援することとなった。また旧来の官僚組織を温存し、
社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした。また一方で首都の治安を守るために
クックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団(ドイツ語版)」が結成された。
しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。

模索期 11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との
休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した。後にパウル・フォン・ヒンデンブルクが言明し、
ナチ党などが流布したいわゆる匕首伝説、すなわち第一次世界大戦で、依然として戦争遂行の余力が
あったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者とそれに支持された政府が裏切り、
「勝手に」降伏した、もしくは「背後の一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと
導いたとするデマゴギーが生まれ、共和国を破滅に追い込むこととなる。
11月15日には、先の政治協定と似た形で、労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。
(シュティンネス・レギーン協定(ドイツ語版))労働組合や労働運動の急進化を防ぐために、
団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。
12月16日、全国労兵レーテ大会で、多数派を占める社会民主党員の賛成により国民議会の召集と
そのための選挙の実施が決定された。
12月23日、ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した
部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した
(人民海兵団事件(ドイツ語版))。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。

革命の鎮圧 12月30日、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党
(KPD)が結成された。1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官
エミール・アイヒホルン(de)が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模な
デモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は
無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、
以降「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続いた。
1月9日、ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール(ドイツ義勇軍)が
ベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開した(スパルタクスの週)。
1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトと
ローザ・ルクセンブルクが彼らにより殺害された。以降、各地に広がった労働者の武装蜂起は、
ミュンヘンに成立していたレーテ共和国を筆頭に次々とフライコール(義勇軍)により鎮圧されると
ともに労兵レーテも解体・消滅していった。散発的な蜂起やゼネストは続いたが、
国防軍も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧された。
1月19日、国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。2月6日、ヴァイマルの地で
国民議会が召集された。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、
いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した。また、大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、
社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。
後には、当時世界で最も民主的な憲法とされたヴァイマル憲法が制定された。
ドイツ革命により帝政が打倒され、共和国が樹立されたが、ドイツを世界大戦に導き、
軍国主義を積極的に支えてきた帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。
彼らの後援による極右勢力、右翼軍人らの共和国転覆の陰謀、クーデターの試みは右から
共和国と政府を揺さぶり、一方、極左党派は左から社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を
激しく攻撃した。これら左右からの攻撃がヴァイマル共和国の政治的不安定さの一因となった。

バイエルン革命 11月7日、バイエルン王国の首都ミュンヘンで独立社会民主党の
クルト・アイスナーが演説をし、アイスナーを首相とする共和政府が樹立された。
革命が成立した要因には、戦局の悪化による厭戦感情と、オーストリアの降伏により
バイエルンが戦場となることへの危機感があった。また、ルートヴィヒ3世が権力に
執着せず速やかに退位したことで、政権の移行も速やかに行われている。一連の革命に
おいて反王室の流れが生まれなかったことから、王室が追放されることはなかった。
アイスナーはレーテを国制の基礎に置こうとしたが、中産階級や農民をレーテに取り込もうと
したため共産主義者から批判された。また、社会民主党などからの議会の設置要求を拒否できず、
1月12日に選挙を実施した。その結果、独立社会民主党は180議席中3議席に留まった。
アイスナーは首相在任のまま2月21日に暗殺された。
共産主義者はこの混乱に乗じて共産主義政権の樹立を目論むが、4月6日に無政府主義者の
グスタフ・ランダウアー、独立社会民主党員の劇作家のエルンスト・トラーらが革命を起こした。
トラー政権には自由貨幣の提唱者であるシルビオ・ゲゼルが金融担当大臣として入閣していた。
文学青年の集まりであった新政権は体制を維持できず、一週間後にはスパルタクス団創設者の一人
であるオイゲン・レヴィーネ(Eugen Levine)率いる共産主義者が革命を起こし、政権を奪取された
(バイエルン・レーテ共和国)。モスクワのボリシェビキ政権はバイエルンの共産主義政権を
革命の拠点になりうるとして高く評価した(この間16日に当時のヒトラーがレーテ代表
代理に選ばれており、フライコールに捕えられてから連隊の告発委員会に参加し、
カール・マイヤーによって反ボリシェヴィキ講習のあとドイツ労働者党におくりこまれる)。
5月1日にミュンヘンがドイツ政府軍の攻撃を受けたことで、バイエルン革命は終焉した
(レヴィーネは捕らえられ、7月5日に処刑されている)。
革命以後はバイエルンで右翼勢力が支持されるようになり、ミュンヘンでのナチス結成につながっていく。