モダニズム文学
日本では昭和初期から欧米の文芸作品、超現実主義などの文芸思潮の紹介を介して根付いた。横光利一、川端康成などの新感覚派の作品、吉行エイスケや龍胆寺雄などの風俗的なモダン趣味、現代詩初期の運動などが、日本のモダニズム文学の出発点と考えられている。小説の分野ではモダニズムの影響は表層的一過的であったが、現代詩の分野では、詩誌「詩と詩論」などの昭和初期のモダニズム運動から始まった流れは、戦後も詩誌「荒地」、「凶区」の詩、吉岡実の詩など、一貫した影響を残した。
- 前衛的である。モダニズム文学という言葉が、ボードレールの美術批評のなかの「現代性(モデルニテ)という言葉から始まったように、新しさを求める。
- 古典の再発見ということが、理念の中心にある。
- そこには研ぎすまされた方法意識がある。従来の文学がもっている表現方法がどんなものであるのかを知り、それを土台にして新しい文学をつくる、ということ。
近代文学は無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性などの特徴を持つ。これに対し、ポストモダン文学は物語の矛盾を肯定的に含んだり(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。
ポストモダン作家はしばしば、『ドン・キホーテ』や『千夜一夜物語』、『デカメロン』や『カンディード』など多くの古い小説や物語の中にみられる構造やナラティブの実験性を指摘している。英語圏では、ポストモダンへの影響としてローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』(1759年)の重量級の語彙、パロディ、物語の実験性などが度々言及される。他にもバイロンの風刺(特に『ドン・ジュアン』)、トマス・カーライルの『衣服哲学』、アルフレッド・ジャリの下品な『ユビュ王』とそのパロディや「パタフィジック」の発明、ルイス・キャロルの言葉遊び、ロートレアモンやアルチュール・ランボー、そしてオスカー・ワイルドなど、19世紀の啓蒙思想に対する攻撃やパロディ、冗談などを色濃く示している作品が多い。スウェーデンの劇作家アウグスト・ストリンドベリ、イタリアの作家ルイジ・ピランデロ、ドイツの劇作家で理論家のベルトルト・ブレヒトなど、19世紀から20世紀初頭の劇作家たちは、ポストモダンに美的な影響を与えたといわれる。1910年、ダダイスムの流れの中でアーティストたちは、遊び心や偶然性を称賛し、新たな芸術に挑んだ(要説明)。トリスタン・ツァラは『ダダイストの詩の作り方』で、山高帽の中にランダムに入れられた単語を順番に取り出してつくるダダイストの創作方法を提案した。他にも、ダダイスムは大学の発展の中でもポストモダンに影響を与えている。大学では既存の広告や有名な小説の押絵などを使用した(マックス・エルンストの大学のように)。ダダイスムから発展し、意識の流れを称賛してパロディや偶然性を引き継いだシュルレアリスムへとアーティストは移行していった。シュルレアリスムの祖アンドレ・ブルトンは、オートマティスムと夢の記述は文学創作において偉大な役を演じると主張した。彼はオートマティスムを使って小説『ナジャ』を書き、説明のかわりに写真を使うことによって、彼が常々批判していた過剰な説明をしたがる作家たちをパロディにした。ルネ・マグリットの重要な実験はジャック・デリダやミシェル・フーコーによって引用された。フーコーはまた、多くのポストモダン作家に直接影響を与えた最も重要な作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスからの引用も行った。ボルヘスが創作を始めたのは1920年代だが、彼はポストモダン作家として分類されることがある。彼のメタフィクションとマジックリアリズムの実験は、英米ではポストモダンの時代まで十分に理解されなかった。
モダニズム文学との比較
モダニズム文学もポストモダン文学も19世紀リアリズムからの決別を意味している。特質をいうなら、モダニズム文学もポストモダン文学も主観主義を追い求めることである。ヴァージニア・ウルフやジェイムズ・ジョイスの文体、T・S・エリオットの詩『荒地』などに見られるように、多くのモダニストによって描かれた「意識の流れ」は、外部のリアリズムから内部の意識の状態への転換を意図している。さらに、モダニズム文学もポストモダン文学も同様に物語、性質、構造の断片によって追求している。『荒地』は度々モダニズム文学とポストモダン文学の際立った特徴をもっていると位置付けられる。詩はポストモダン文学の中でも特に文体模倣や断片が多くみられ、『荒地』の語り手は「私を支える断片は、私の滅亡に対抗する」と言っている。モダニストの文学は断片を用いて、実存主義の危機やフロイト派の内的矛盾を主観的に探求し、問題を解決すべく、その問題に取り組んでいたといわれている。一方ポストモダニストは、この混沌は乗り越えられないことを証明している。彼らの主張は、「破滅」に対抗する訴えだけが混沌から免れるのだということである。遊び心は多くのモダニストの作品にみられ(例えばジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やバージニア・ウルフの『オーランド』)、ポストモダニズムと非常に類似しているが、ポストモダニズムはより遊び心が中心的になり、物語の状況や意味性を明確にしない。
ポストモダンへの転換
文体に関する時代区分がすべてそうであるように、ポストモダンの興隆と衰退の明確な日付をいうことはできない。しかし大雑把には、アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスと英国の作家ヴァージニア・ウルフが死んだ1941年がポストモダンのスタートラインだといわれることがある。いずれにせよ《ポスト》という接頭辞は、必ずしも新しい時代を意味するわけではない。むしろ第二次世界大戦勃発におけるモダニズムへの反対表明を意味する(人権差別、成立したばかりのジュネーヴ協定、広島と長崎への原爆投下、ホロコースト、ドレスデン爆撃、東京大空襲、そして日系アメリカ人の強制収容など)。そして戦後の重要な出来事への関心でもある。冷戦、アメリカの市民権運動、ポストコロニアリズム(ポストコロニアリズム文学)、そしてパーソナル・コンピュータの始まりなどである(サイバーパンク小説、ハイパーテクスト小説)。ポストモダン文学の出発として議論される最初のものは、注目を集めた重要な出版物や出来事などである。例えばポストモダンの始まりを予感させる最初の出版物は1949年のジョン・ホークス『人食い』、演劇では1953年の『ゴドーを待ちながら』、それから1956年の『吠える』や1959年の『裸のランチ』などである。その他の始まりを示す重要なものに批評理論がある。ジャック・デリダの1966年の講義『構造・記号・遊戯』や少し遅れてアイハブ・ハッサンの1971年の『The Dismemberment of Orpheus(オルフェウスの切断)』の扱いなどである。この転換についてブライアン・マクヘイルは主要論文で詳細に説明している。ポストモダンの仕事はモダニズムから発展し、モダニズムは認識論的な優勢によって特徴付けられ、ポストモダンは存在論の疑問に端を発している。
戦後の発展と形式の変化
ポストモダン文学は同じ時代に書かれた作品についてあまり言及しないにも関わらず、様々な戦後の興隆(不条理演劇、ビート・ジェネレーション、マジックリアリズムなど)は見逃せない類似点をもっている。それらの発展はときおりまとめて《ポストモダン》と言われる。一般的には重要人物(サミュエル・ベケット、ウィリアム・S・バロウズ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、ガブリエル・ガルシア=マルケス)がポストモダンへの貢献者だとされている。ジャリによると、アントニ・アータウドやルイージ・ピランデッロらシュルレアリストは、不条理演劇によって演劇界に影響を与えた。不条理演劇は1950年代の演劇の傾向を説明するためにマーティン・エスリンによってつくられた言葉で、アルベール・カミュの不条理性を受け継いだものである。不条理演劇は多くの点でポストモダンに類似している。例えば、ウジェーヌ・イヨネスコ『禿の女歌手』は国語の教科書の台詞の寄せ集めである。もう一人、不条理でありポストモダンであるといわれる作家で最も重要なのが、サミュエル・ベケットである。サミュエル・ベケットの作品はしばしばモダニズムからポストモダンへの転換点であるといわれる。彼はジェイムズ・ジョイスと友人であり、モダニズムに非常に近い存在であり、いずれにせよ、彼の業績はモダニズムからの発展を形作ったのである。モダニズムのお手本ともいうべきジョイスは言語の可能性を追求した。ベケットは1945年、ジョイスから逃れるために、言葉の貧困と落伍者たちに焦点をあてなければならないということに行き着いた。後期の作品ではさらに、演じることだけに徹する不可避的な人間関係の中で、主要人物の魅力を引き出した。ハンス=ペーター・ワーグナーが言ったように、「ほとんど彼は小説の可能性のためにやっていた」(人物のアイデンティティ、明確な意識、言語の持つ力、文学の独自性)ベケットは、小説や演劇において語りや人物の崩壊といった実験的物語が評価され、1969年にノーベル文学賞を受賞した。1969年以後に出版されたベケットの作品は、過去の作品を引き合いにして読解することを必要とするものや、形式やジャンルを脱構築するメタ文学がほとんどである。彼の生前に出版された最後の作品『Stirrings Still』(1988年)は、彼の過去の作品の模倣と繰り返しのモザイクによるテクストで、演劇と文学と詩の壁を破壊した。彼は物語の論理的な一貫性や上品なプロットや通常の時間の流れや心理的な描写が依然として続いていたフィクションの中で、明確にポストモダンの父としての役割を果たしたのだ。《ビート・ジェネレーション》は、1950年代の物質主義的なアメリカに不満を抱く若者のために、ジャック・ケルアックによって名付けられた。ケルアックは、彼が《流麗な散文》と呼んだオートマティスムの発明によって、巨大な叙事詩を作り出し、それはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の型から影響を受け、『Duluoz Legend』(ドゥルーズ伝)と呼ばれている。《ビート・ジェネレーション》はもっと大雑把に、《ブラック・マウンテン詩》やニューヨーク・スクールやサンフランシスコ・ルネサンスらを総括して呼ばれる。それらの作家は時折《ポストモダン》に分類される。しかしながら今では一般的にそれらの作家は《ポストモダン》と呼ばれないが、影響力は計り知れず、このグループ(ジョン・アッシュベリー、リチャード・ブローティガン、ギルバート・ソレンシオらその他多く)と関係がある多くの作家は度々ポストモダン作家として分類される。ポストモダン作家に分類され、ビートジェネレーションともいわれる最大の作家はウィリアム・S・バロウズである。バロウズは『裸のランチ』を1959年にパリで、1961年にアメリカで出版した。これは最初の真のポストモダン小説だといわれる。断片的で、中心となるストーリーはなく、SFや探偵小説など大衆小説の要素を詰め込んだパスティーシュであり、パロディやパラドクス、言葉遊びなどが満載だったからである。バロウズはまた、ブライオン・ガイシンと共に《カットアップ》の創始者といわれる。この技法(ツァラのダダイストの詩と似ている)は、新聞やその他出版物から単語やフレーズを切り取り、新たなメッセージに置き換える。彼はこの技法を『ノヴァ急報』や『爆発した切符』で実践している。
マジックリアリズムは、ラテンアメリカの作家によって特に有名で(そして彼らのひとつのジャンルだとも考えられる)、神秘的な要素を日常的なものとして扱う技法である(ガブリエル・ガルシア=マルケス『翼を持った老人』における明確な天使の姿に対する現実的な扱いと徹底したさり気なさの例)。この手法は民話がもとになっていて、ラテンアメリカ《ブーム》の中心的な存在になり、ポストモダンへとつながっている。《ブーム》の有名人やマジックリアリズムの専門家(ガブリエル・ガルシア=マルケス、フリオ・コルタサルなど)はよくポストモダン作家だと分類される。しかしながらこの呼び方は問題がないわけでもない。ラテンアメリカのスペイン語話者の間でいうモダニスモやポストモダニスモは、英語圏のモダニズムやポストモダニズムとは直接関係のない20世紀初頭の文学に影響されている。オクタビオ・パスは、ポストモダンは、ラテンアメリカの文化とは相入れない壮大な文学的外来種だと主張した。ベケットとボルヘスに加えて、転換期の人物だとよく言われるのはウラジーミル・ナボコフである。ベケットとボルヘスのように、ナボコフもまたポストモダンが始まるより前に活動を始めた(ロシア語で1926年、英語で1941年)。しかし彼の最も有名な小説『ロリータ』(1955年)は、モダニズム、もしくはポストモダニズムだといわれる。彼の後の作品(とくに『青白い炎』(1962年)や『アーダ』(1969年))はより明確にポストモダン的である。
範囲
文学におけるポストモダンは、中心的な人物によってつくられた運動ではない。それゆえ、ポストモダンがいつ終わったか、もしくはいつ終わるのかを定義することは難しい(モダニズムにおいてはジョイスとウルフの死がその終わりだといわれることがある)。1961年の『キャッチ22』、1968年の『びっくりハウスの迷子』、1969年の『スローターハウス5』、1973年の『重力の虹』などの出版物にように、ポストモダンのピークは1960年代と1970年代であることは間違いない。レイモンド・カーヴァーによって代表される新しい潮流がポストモダンを終わらせたという意見もある。1989年の『Stalking the Billion-Footed Beast』においてトム・ウルフは、ポストモダンにとってかわる新しい重要な小説のリアリズムだと言われている。この新しいリアリズムにおいて、1985年の『ホワイトノイズ』や1988年の『悪魔の詩』がポストモダン期最後の偉大な小説だと言われている。新しい世代の作家、デヴィッド・フォスター・ウォレス、ジアニーナ・ブラッチ、デイヴ・エガーズ、マイケル・シェイボン、チャック・パラニューク、ジェニファー・イーガン、ネイル・ガイマン、リチャード・パワーズ、ジョナサン、レセム、そして出版物『マクスウィニーズ』、『ビリーバー』、そして『ニューヨーカー』の小説欄は、ポストモダン、もしくは全く別の何か―《ポスト・ポストモダン》のいずれかの新しい章を予告する。
日本におけるポストモダン文学[編集]
日本におけるポストモダン文学は1980年代に始まり、最初の作品として1980年の文藝賞受賞作品、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が挙げられることが多い。消費生活を享受する女子大学生の日常を描きながらの、文中に登場する香水、ミュージシャン、レストランなどについての膨大で詳細な注釈は斬新なものとして受け止められた。
1981年には、高橋源一郎が現代詩のコンテクストを持つ『さようなら、ギャングたち』でデビュー、群像新人長編小説賞の優秀作に選ばれた。1983年にはロシア文学に造詣の深い島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビューし、芥川賞候補になる。この2人は長く日本の純文学を牽引していった。1984年には歌舞伎に造詣の深い小林恭二が『電話男』でデビューし、海燕新人文学賞を受賞した。1994年には笙野頼子が『タイムスリップ・コンビナート』で芥川賞を受賞し、以後フェミニズムを主題に日本のポストモダン文学の一翼を担った。