https://note.com/gaibunkyoku/n/n2bfe550db161 世界文学サークル 世界文学年表pulpに匹敵!
読書中は以下のとおり
私は英国王に給仕した
抱擁家族
ミダック横丁
ダーバビルのテス
縮図
マンスフィールド・パーク
ギリシャ悲劇
イリアス
オデッセイ
徒然草の歴史学
エジプトの歴史学
ミドルマーチ?
田舎司祭の日記?
ーーーー【ラテン10大小説】ーーーーーーー------------
・バルガス=リョサ 『緑の家』
・ガルシ=マルケス 『百年の孤独』
・アジェンデ『精霊たちの家』
・アストゥリアス『大統領閣下』
・カルペンティエル 失われた足跡』
・フェンテス 『我らが大地 テラノストラ』 かわりに老いぼれグリンゴで
・プイグ『蜘蛛のキス』映画見たから いいかな
・ドノソ 『夜のみだらな鳥』 失われた足跡でいいかも
・コルタサル『石蹴り』? 短編
・ボルヘス 『エル・アレフ』? 短編集
ーーールネサンス後の人間主義の系譜ーーーーーーーーー
ユマニストの系譜:ダンテとチョーサーは14世紀で千夜一夜の影響大
エラスムスとモアは15世紀、ラブレーは16世紀、セルバンテスとスイフトは17世紀、18世紀のスターンは前衛すぎて微妙 シェクスピアは戯曲だから、これもなかなか
ーーーー 19世紀以後の近現代文学 ーーーーーーーーーーーー
19世紀にはじまる近代文学は無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性などの特徴を持つ。これに対し、モダニズム文学は、20世紀文学の一潮流で、1920年前後に起こった前衛運動をさす。都市生活を背景にし、既成の手法を否定した前衛的な文学運動。ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本、ラテンアメリカなど各国でその動向が見られる。(1)19世紀的な安定した時間・空間構造の解体、断片化への志向、(2)意識の流れや無意識的記憶など、意識下の世界への着目、(3)方法意識の尖鋭化などが、その全般的な傾向である。ポストモダン文学は近代文学の特徴に反する特徴を持つ文学のことであり、モダニズムを含む。ポストモダン文学は物語の矛盾を肯定的に含んだり(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスと英国の作家ヴァージニア・ウルフが死んだ1941年がポストモダンのスタートラインだといわれることがある。例えばポストモダンの始まりを予感させる最初の出版物は1949年のジョン・ホークス『人食い』、演劇では1953年の『ゴドーを待ちながら』、それから1956年の『吠える』や1959年の『裸のランチ』などである。ポストモダン文学は同じ時代に書かれた作品についてあまり言及しないにも関わらず、様々な戦後の興隆(不条理演劇、ビート・ジェネレーション、マジックリアリズムなど)は見逃せない類似点をもっている。それらの発展はときおりまとめて《ポストモダン》と言われる。一般的には重要人物(サミュエル・ベケット、ウィリアム・S・バロウズ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、ガブリエル・ガルシア=マルケス)がポストモダンへの貢献者だとされている。しかし、マジック・リアリズムなどの南米文学に対してポストモダンとよぶのに反論もあり、オクタビオ・パスは、ポストモダンは、ラテンアメリカの文化とは相入れない壮大な文学的外来種だと主張した。いずれにしても、1961年の『キャッチ22』、1968年の『びっくりハウスの迷子』、1969年の『スローターハウス5』、1973年の『重力の虹』などの出版物にように、ポストモダンのピークは1960年代と1970年代であることは間違いない。レイモンド・カーヴァーによって代表される新しい潮流がポストモダンを終わらせたという意見もある
(文学上の手法としての「意識の流れ」)
この「意識の流れ」の概念は、その後文学の世界に転用され、「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」という文学上の表現の一手法を示す言葉として使用されて文学用語になった この手法を小説の全編にわたって最初に使ったのは、ドロシー・リチャードソン の『尖った屋根』(1915年)とされているが、それより先のジェイムズ・ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』(1914年-1915年)にも部分的に用いられている また、この表現方法でよく使われる文体の「内的独白」(interior monologue)と呼ばれる手法は、エドゥアール・デュジャルダンが初めて用いたとされ、「意識の流れ」の起源を特定の1人の作家とは限定しにくく、哲学や文学の「時代精神」的な流れで発生している 人間の思考を秩序立てたものではなく、絶え間ない流れとして描こうとする試みは、「意識の流れ」という語の成立以前からあり、最も早い例としてはローレンス・スターン『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』などがあるが、特に近現代の意識の流れを用いた小説には心理学の発達、殊にジークムント・フロイトの影響が見逃せない。「意識の流れ」を用いた代表的な作品としては、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』、フォークナーの『響きと怒り』などがある。キャサリン・マンスフィールド、ドロシー・リチャードソンなどの作家も、「意識の流れ」を用いた作家として挙げられる。日本の作家では川端康成が、『針と硝子と霧』(1930年)、『水晶幻想』(1931年)において「意識の流れ」を実験的に用いており、横光利一の『機械』(1931年)にもこの手法の影響が散見できる。これに対し後輩の伊藤整や堀辰夫は新心理主義とよばれるが、日本近代文学の本流が自然主義であることにかわりはなかった(プロ文も白樺もおしのけ)。戦後は、第三の新人、大江・中上、そして内向の世代。。。。村上は世界文学だった
(アメリカ合衆国のポストモダン文学)
ポップカルチャーの発祥地とも言えるアメリカ合衆国では、やはり、ポップと文学の融合というような特色が濃く見られる。「スリップストリーム」(主流文学と通俗文学の境界解体)、「アヴァン・ポップ」(前衛文学とポップカルチャーの融合)という潮流があった。フィリップ・K・ディック、カート・ヴォネガット(SF小説と純文学の融合)や、ポール・オースター(探偵小説と純文学の融合)などがこの流れの代表的存在である。
ーーーーーーー懸案 その3 哲学 竹田哲学 ーーーーーーーーーーーーーーーーー
新・哲学入門抜粋
第一章 哲学の本質
宗教は物語で世界説明を行うが、哲学は普遍洞察で世界説明を試みる。宗教は共同体を超ええないが哲学は超えうる。
ギリシャ哲学は、自然科学につらなる自然哲学と、認識論、存在論、価値論を哲学の中心課題としたが、難問は認識論だとのこと。。。。
哲学の目的は不変暴力の縮減である。起源は不明なるも言語ゲームが動物世界とことなり弱肉強食でなく人間世界に普遍暴力をもたらした。
そして国家がその抑止装置としてあらわれてきた。現代哲学主流の相対論主義者は竹田を独断論と批判するが、多様な議論は自由市民社会に
おいてのみ可能であることを忘却している! 社会契約と一般意志(ルソー)にもとづく自由な市民社会こそが
自由と価値の多様性を保証する 国家間の普遍交換のみが持続成長を可能とする資本主義の基礎である(独占予防の持続的修正を必要とする。
ただ、本書では、そのための議論はしない。欲望論をよまれたい。)
第二章 本体論的転回と認識の解明
ゴルギアスのテーゼは、以下のとおり。認識は、存在の代表象であって存在それ自体ではない。言語は認識(意味)の代表象であって認識それ自体ではない。
それゆえ、存在、認識、言語の間の厳密な一致は不可能である。もし、これが正しければ普遍認識は不可能となるが、フッサールとニーチェが論破した。
ニーチェの存在論の根本的転回のキーワードは「遠近法」である。世界はそれ自体として「存在」してはいない。世界は「力」によって分節されつつ
たえず「生成」する。まず「存在」(世界自体)があって、次にその認識としての「生成の世界」があるのではない!
生き物の「実存世界」(生成の世界)だけが現実存在する。だが人間は、言語ゲームを通してそれぞれの「実存世界」を交換しあう。
そのことが人間をして、私が経験しているのと「同じ世界」を、他者たちもまた経験していることを知る(信じる)。。。。追記必要!
これを本体論の解体という。つまり客観とは主観からの遠近?
フッサールの現象学的還元とは、一切の認識を主観における「確信」の成立(構成)とみなすこと。一種の視線の変更である。
自然的態度とは赤いものあるー客観原因からりんごー主観結果があるとするが、現象学的には赤いものが見えるー主観原因から
りんごー客観結果があると確信する。論理的にはどっちでもいいが、世界観を記載するには、後者の方法が不可欠。
確信には個的、共同的、普遍的の3種がある。普遍的確信認識には1.厳密な確信領域 2.そうでない領域の2種がある
人文領域における普遍認識の可能性は1.の追求では得られない。
第三章 欲望論哲学の開始
1。欲望相関性
世界は欲望の相関者としてのみ分節される。欲望相関性の概念は「内的体験」「エロス的力動」「世界分節」の3契機によって構成される。
(1)内的体験
すべての生き物は、生の内的体験すなわち「内的実存」の世界を生きる。「価値」とは、内的実存の世界におけるエロス的触発ー生起、発動を源泉とする。
(2)エロス的力動(情動性)
「内的体験」の世界に生じる心的力動をエロス的力動とよぶ。「価値」(またその相関者としての「意味」)の概念は、
ただ「エロス的力動」の概念からのみ導かれ、展開される。
(3)世界分節
世界は根源的に「欲望」という価値的に分節、生成される。注:始原の分節は、『快・不快』の審級である。
存在論的に認識論的にも「内的実存」の世界こそが、客観世界に先行する。ニーチェ、フッサール、ウィトゲンシュタインの3人のみが、この本質理解を示した。
2.方法としての本質洞察
自然科学の「自然の数学化」という方法は、自然世界の認識が「不可疑」という原則とともに有効だが、人文領域の普遍認識としては無効である。コント実証主義の
看過した点である。人文領域の方法的基礎は現象学的「純粋意識」と「本質観取」を基礎としつつ(フッサール)、欲望論的な「現前意識」「本質洞察」へ
転移されねばならない。「情動」を世界構成の根本契機とすることによって、はじめて「価値」の本質論が可能となる。
3.意味と価値の本質学
まず、意味とは何か。意味の生成は、対象の「一般的意味」を構成するだけでなく、対象の価値をめぐる関係的な意味の連関を生み出す。そして、これらの
意味の系列は、私の欲望とその強度を、この世界分節の絶対的な「中心」(遠近法)としてもつ。生物のもつ根本能力である遠隔知覚は時間的ー空間的に構成する
過程で「快・不快」は「予期・不安」へ時間化される。意味とは、生き物自身の世界了解の世界分節性であった。
つぎに価値とは何か。実存世界の本質関係としては、欲望が発端となり、価値の生成が意味の生成に先行する。人間は言語ゲームで、内的体験を
相互交換し、間主観的な信憑として客観的に存在する「同一の世界」なるものがお互いのうちに成立する。この過程が普遍的にくりかえされ、1個のリンゴは
果物一般という客体化された価値と意味として存在するようになる。
第四章 世界認識の一般構成
1.世界の一般構成
個的直観と意味直観(フッサール)にくわえ情動所与をあわせて世界理解が成立する。世界確信は日常理解、公共理解、文化理念理解よりなる。
(1)日常世界では、欲望をともなう直接理解が本質である。(2)公共世界では、伝聞が中心となり世界確信が構成される。
(3)文化理念世界(宗教・芸術・形而上学)は主として言語によって構成されている。宗教・政治思想・価値観・審美観・さらに言語化されないものと
しての「超越的世界」がここにある。人間は(1)~(3)の重層に人生を生きているが、(3)は確信根拠の検証可能性を本来もたない。
2.時間意識の本質学
ハイデガーによれば、人間存在は、被投性ー現在ー企投という実存の構造であり、このため、現前、過去、未来という時間形式が必然化される。
フッサールによれば、人間の現在知覚は本質的に直後記憶の契機が織り込まれており、未来把持を予感するようになっている。
3.「生き生きとした今」の構成
時間的な体験は、「持続的顕在」があり、「情動継起」が促され、「情動累積」で生き生き(エロス的)なものとなる。これは間主観的にも妥当する。
ただ、これがいつも反復的に現れなくなると、公共概念や文化理念の構成が不安定となる!
第五章 幻想的身体論
1.身体問題のアポリア
「身体」は、物質と心の秩序の境界線上にある。だが、心と物は、存在審級を異にし、相互に還元不可能である。ベルクソンは生き物の身体を
「記憶をもった物質」と規定した。しかし、ここから価値論には発展しない。
2.現象学的身体論
私の同一性は、ただ現前意識における私の経験についての自己確証の反復可能性という条件に依存する。そして、こうした経験の蓄積から、
われわれは一瞥のうちに対象の豊かな意味ー価値性を直観的に把握する。
3.「身体」の本質洞察
人間の身体は、単なる感覚器官なのではなく世界感受の総合的能力、すなわち世界を意味、価値、エロス的総体として感受する一つの
「能う(Ich Kann)」にほかならない。
「身体」の本質契機に属するのは、(1)エロス的感受(2)「存在可能」(3)「能う」の3つである
(1)エロス的感受
存在の非知的告知は、実存的生の始発性である。それは「快ー不快」そして遠隔知覚による「予期ー不安」を基底にもち、その背後はない。
(2)「存在可能」
人間は間主観の関係世界をいきるゆえに、人間の欲望は、さまざまな選択ー判断の契機をもつ。これが「自由」の起源となる。
(3)「能う」
「能う」は修練可能性をもつ。そのために、感受能力を向上させる、言語連絡機能を向上させる必要がある。
第六章 無意識と深層文法
1.深層心理学の展開
身体とならんで無意識も、現前意識において構成される一つの世界確信としての現実性にほかならない。
2.「深層文法」
人間の主体は、じつは不可視の内的領域に規定され、構造化され、従属しているが、この無意識の領域は独自の理論で可視化できるとする。
ただ、これは検証可能性のない仮説であり、宗教の物語構造と類似である。われわれが生き物に見出す空白、ブラックボックス、つまり心は
選択的機能としての脳の機能にほかならない。つまりベルクソンのいう人間の『自由』である。
3.無意識の本質洞察
無意識はカントの物自体に似て可想界にある。では、どのような現象と経験を我々は「無意識」とよび、それはどのような記述で
間主観的な妥当性をもつのかと問う。まず無意識とは、こういえる。本質的に、自分の存在についての自己理解と他者の理解とのズレの
自覚として現れ(自己のきづきも含む)、それを克服しようとする自己配慮を含む。そうした事象ー経験一般を我々は「無意識」とよぶ。
こういう観点からの心理療法は、それ以外の方法がないというだけの理由で妥当性をもつ。
近代哲学は、「社会」を諸ルールによって構成された構造として把握する方法を創出し、そのことで歴史上はじめて、社会を人間にとって対処ー
操作可能な対象として表現した。フロイトは、これと同じことを「心」についてはたした。
第七章 価値審級の発生
1.価値論的転回
価値の問いは、ニーチェに至るまで、何らかの超越的存在による根拠づけという発生から抜け出せなかった。道徳の基礎に人間性を置いたカントですら。
2.価値審級の発生論
それは快不快と予期不安、能うのエロス、関係エロス、初期禁止による良い悪い、きれい汚いの審級、ルール遵守で承認価値をえる自己価値と発展する。
(1)身体的快不快と予期不安
乳児のエロスが口唇に現局しているのは明白で、母が一方的言語ゲームを開始するのも明白。
(2)「身体的ー能う」のエロス
口唇段階から、身体を動かすエロスに発展する。そして、視覚・聴覚への関心も発生する。
(3)「関係感情」のエロス
「笑い」が芽生える。それは、母との双方向的要求ー応答関係となる。この段階で、子に自我・他我の弁別はまだないが、
人間の心的世界を根本的に性格づける対他的「感情世界」の形成の基礎となる。
3.初期禁止
(4)初期禁止と『良い・悪い』
初期禁止の開始により、前述の段階から第四の段階、母からの諸規範の要求に子が応答する「規範ールール」の受容の段階にうつる。
ここで、母は初めての他我となる。そして「自我」は、自己が他者にとっていかなる存在としてあるべきかについての自己配慮として形成される。
ここが、関係的存在としての人間となる、決定的転回点である。
第八章 「善と悪」
1.「よい・わるい」の生成
人間は第一に母子の関係感情の世界、第二に言語ゲームの世界、そして第三に「自我」への価値的ルールの内面化。これらの諸契機が
善悪、美醜の価値審級をつくり、最終的に「真善美」の価値秩序をうちたてる。
(5)ルール規範の遵守をめぐる承認価値(第七章からつづく、その5である)
「よいーわるい」は初期禁止を転回点として、禁止をめぐる子の順守と抵抗の態度を呼び分けるものとなる。ここで
それは、はじめて人間の関係世界における「価値」審級の言葉となる。さらに「良い子ー悪い子」という言葉が子の自我主体を自立させる。
子は、この地平で、自己固有の「内的ルール」として「よい・わるい」を打ち立て、倫理的存在としての関係的自己となる。
つまり良心をもったり、失ったりする存在となる。うそといいわけがそれである。
2.良心の疚しさ
いたづらは、子が、自分たちの新しい「よいーわるい」のルールを形成し、自らその秩序を調整していゆく能力を身につけてゆくための、
始めの通過儀礼である。しかし、「疚しさ」を解消するには、よい子規範が、母からの愛情や承認で受容されるとき、よい子たろうとする
自発的内面化が必要である。
3.抗弁 正当化 悪
それがルール違反であることを明瞭に自覚しつつ、それを「罪」と認めず、言語的な正当化、抗弁によって無化しようとする試みにおいて、
はじめて、自立的な自己中心性としての「悪」が現れる。
4.ロマン的世界と自己理想
象徴的にいえば、人間は「美徳」の道と、「幸福(悪徳)」の道の大きな岐路に、人生で二度であう。一回目は幼児期だが、二回目は思春期で
人間の主権的な自己配慮と自己決定という意味で、後者は前者よりはるかに重要である。それは、自己ロマンと自己理想をそだてる。
第九章 「きれいーきたない」審級
1.ヨーロッパの美学
美は主観的なのに、なぜ普遍性をもつのか?プラトンは、美というイデアがあるのだと謎めいた結論を残した。カントは、この二律背反に
想像力と能力を感性と悟性の間におくと快さが発生する、つぎに悟性と理性の間に判断力という能力をおくと合目的性が発生する、それが美だとのべた。
しかし、合目的性に神学的なものを感じたシラーとヘーゲルは批判した。美は人間精神の自由の本質の表現性であると。本書後半で詳述される。
2.美的対象の一般本質
ハイデガーによれば、気遣いと用在で、人間は客観性と実存性の二重性を生きていることを明確にした。では美しい花は?
「もっと見ていたい」という情動的衝迫(一種の享受蕩尽)をもたらす、そういうものを「美しい」花とよぶ。
それを可能にしているのはカント的でない世界感受(能う)をもつ幻想的身体である。
3.美的審級の発生
母の「きれいーきたない」は、おそらくはじめは、美的な秩序とは違ったものを指し示す。まずは、「不潔-清潔」の意味で使われる。
母は子との言語ゲームで、さらに清潔とは異なった意味の『きれい』が了解されていく。
(1)形象指示了解
母が「きれい」とよばれるものの外見上の、つまり形象上の共通性を了解させる。ただ、その形象は、むしろ形態の多様性が際立っている。
(2)情動指示了解
母は子に「きれいね」と呼びかけるとき、対象の許可と推奨のみならず、共感への招聘を促している。
(3)対象的特性の了解
美的対象は、子に好奇心をかきたてる。そして、形象をこえたよきものの予感を生じる。美的対象は、つねにまだ開かれていない愉楽的な
「世界性」の感覚を「背後性」としてもつ。
第十章 美醜
1.容貌の美
エロース(善きものと美にひきつけられる人間欲望)の本質は以下のとおり。「美的欲望の対象は、人間の感受性の能力の展開に応じて転移する」
では、なぜわれわれは感覚的な知覚から来るエロスと人間の心性から受け取るエロスを、同じ美という名で呼ぶのか?以下で詳述。
2.顔の形而上学
私から絶対的に自立しつつ、それ自身の主権性を維持する「他者の他者性」を、「顔」はたえず公現する。では美しい顔は何を公現している?
それは起源としては、母の顔の表情それ自体でなく、それが生み出す関係感情の肯定的エロス性である。
3.行為の美、精神の美
義務的な正しい行為・精神とことなり、純粋、無垢、高邁、気高さを美しい行為・精神は持っている。美は、道徳や崇高の概念とまったく
同居不能というわけではないが、本質的に生の「義務」や「当為」から逃れて、世界のエロス的享受ということにその核心をもつ。
4.体現美
「恋愛」で見出される他者の美しさは、自分が生きているのはこの美しいものを知り、それに触れるためであったと気づくといった仕方で現れる。
恋人の美に人が直観する「美のイデア」とは、こうした一回性の実存的生における超越的欲望の可能性のビジョンである。だが、それはつねに
欺瞞を内蔵しうるために、人は深い審美眼を持つ必要がある。人は、それによって、精神の美に到達できる。
第十一章 芸術美
1.ヨーロッパ芸術哲学
芸術の本質はむしろそれが「現れる仕方」(表現性)にある。それは前景と後景という累層構造をもつ。
2.芸術体験の本質学
芸術体験は、作品、鑑賞者、作品的感銘、表現力的偉力の諸契機よりなる。感銘は創造への意欲、偉力は喧伝の情熱をかきたてる。
創造はおおくの場合に挫折するため、作者の才能を天与としがち(後述) 「批評の言語ゲーム」が、ちょうど超越的なものへの集合的信が神を
生み出すように、間主観的信憑として芸術なるものを創出する。
3.現代芸術論の対立構造 デリダとハイデガー
現実言語の本質洞察により、発語(テクスト)とその了解の間には、そもそも「正しい受取」(一致)がありえない、そこには了解の不可能性(断絶)が
あるのではなく、むしろただ「信憑関係」だけが存在する。我々は作者の作品的偉力についての不可疑の信憑が成立させる。
第十二章 芸術の本質学
1.芸術と結晶作用 ニーチェ
ニーチェによれば、芸術は、その根拠を、生それ自身に対する人間の是認と肯定、憧憬の力、生それ自身を理想化し、ことほぎ、賛美する力、生のエロスの享受への
「我ほっす」にもつ。恋愛と同じように、欺瞞されることがあったとしても、生にどれほどの困難があっても生そのものへの憧れと意欲を保持し
生き延びさせる力を支える。これが芸術の本質である。シニシズム・ペシミズム・ルサンチマンの芸術も癒し効果があれば許される。
2.生の蕩尽 バタイユ
バタイユによれば人間の性と芸術とは、もともと、人間世界の「禁止と労働」の秩序をその起源とする。これらを幻想的に乗り越えようとした
試みが宗教、エロティズム、芸術という形式をとる。つまり芸術や文学は宗教の後継ぎである。エロティズムと芸術は瞬間的蕩尽の形をとる。
3.精神の内的自由 ヘーゲル
(1)人間の欲望は自己欲望であるとともに、他者への欲望という独自の二重性をもつ。
(2)自己価値欲望は承認をめぐる主奴の戦い、または相互承認というかたちをとる。
(3)近代社会では後者が発展し自己実現の欲望となる
(4)人間の欲望はつねに判断選択の欲望であり、一種の自由の欲望となる。
教養と精神が、より普遍的なものへむかう自由の無限の運動となる。
終章(第十三) 芸術の普遍性
1.芸術の普遍性
ニーチェはいう 「真理(道徳・善)はみにくい。私たちが芸術をもっているのは、私たちが真理で台無しにならないためである。」
芸術のうちに道徳の理念が投げ込まれるとき芸術の本質は毀損される。
2.公共のテーブル
芸術ー批評のテーブルはいわば公共のテーブルである。ここにおいて芸術の普遍性が現れる。そこは哲学のテーブルとちがい判断ではなく感受が判定基準。
歴史的時間推移のなかで、普遍的範例として「古典作品」が生み出されるだけである。多様な価値観と感受性の差異から、そこに通底するよきものの間主観
的信憑の形成として芸術的編成は創出される。
3.文化のゲーム
アレントによれば、人間の社会的営為は労働・制作・活動からなるが、これを竹田は経済・政治・文化に変奏した。文化の営みは、生命維持のための経済、
暴力の縮減のための政治とちがい、人間の生のエロスの表現をその本質とする。これら三者は、暴力が排除された公共のテーブルで、よきもの、
ほんとうのものをめがけ表現し、それを育てようとする人々の集合的意思によってのみ人間社会の普遍性は出現する。
注:ヘーゲルが重要だとのこと
ーーーーーーー 懸案 その1 歴史 ーーーーーーーーーーーーーー
岩波新書歴史シリーズ
古代 1 農耕社会の成立 近現代史 1 幕末・維新
2 ヤマト王権 2 民権と憲法
3 飛鳥の都 3 日清・日露戦争
4 平城京の時代 4 大正デモクラシー
5 平安京遷都 5 満州事変から日中戦争へ
6 摂関政治 6 アジア・太平洋戦争
7 占領と改革
中世 1 中世社会のはじまり 8 高度成長
2 鎌倉幕府と朝廷 9 ポスト戦後社会
3 室町幕府と地方の社会 10 日本の近現代をどう見るか
4 分裂と天下統一