2017年12月9日土曜日

ベルクソンについて

アンリ=ルイ・ベルクソンHenri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例18591018 - 194114)は、フランス哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。
幼少期[編集]
ポーランドユダヤ人を父、イギリス人を母として、パリのオペラ座からそう遠くないラマルティーヌ通り (現在のパリ9 Rue Lamartine) で生まれる(妹のミナは、イギリスのオカルティスト、マグレガー・メイザースと結婚し、モイナ・メイザース英語版と名乗った)。誕生後数年は、家族とイギリス・ロンドンで生活を送る。母によって、早くから英語に慣れ親しんだ。彼が9歳になる前に、彼の家族は、フランス、ノルマンディー地方マンシュ県に移り居を構える。
学生時代[編集]
パリ9区のリセ・フォンタネ(現在のリセ・コンドルセ)で古典学と数学を深く修めた後、パリ大学で人文学を専攻し、グランゼコールの一つである国立高等師範学校に入学した。そこでは、教授たちは、新カント派ばかりであったため、ベルクソンは、教授たちに反発しながら、一方でハーバート・スペンサーの著作を熟読して、実証主義社会進化論への理解を深めた。そして、それらを通して、自己の哲学を形成していった。1881に受けた教授資格国家試験では、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学一般を強く批判する解答をした。そのため、審査員の不興を買うことになり、ベルクソンは2位で合格する。
『時間と自由』[編集]
合格後、リセ教師となったベルクソンは、アンジェのリセ・ダビッド=ダンジェ (Lycée David-d'Angers) クレルモン=フェランのリセ・ブレーズ=パスカル (Lycée Blaise-Pascal de Clermont-Ferrand) などで教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして、ベルクソンは、1888ソルボンヌ大学に学位論文「意識に直接与えられたものについての試論」(英訳の題名は「時間と自由意志」)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で、ベルクソンは、これまで「時間」と呼ばれてきたものは、空間的な認識を用いることで、本来分割できないはずのものを分節化することによって生じたものであると批判した。そして、ベルクソンは、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("durée")と呼び、この考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。
『物質と記憶』[編集]
1896には、ベルクソンは、哲学上の大問題である心身問題を扱った『物質と記憶』を発表した。この本は、ベルクソンにとって第二の主著であり、失語症についての研究を手がかりとして、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身問題に取り組んでいる。
すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。
コレージュ・ド・フランスへ[編集]
1900よりコレージュ・ド・フランス教授に就任し、1904にはタルドの後任として近代哲学の教授に就任する。1914に休講(1921正式に辞職)するまでそこで広く一般の人々を相手に講義をすることになる(ベルクソンは結局、大学の正式な教授になることはなかった)。その講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。
『創造的進化』[編集]
1907に第三の主著『創造的進化』を発表する。この本の中で、ベルクソンは、スペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱した。そして、『物質と記憶』で論じた意識と身体についての考察を生命論の方向へとさらに押し進めた。これは、ベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進めたものといえる。そこで生命の進化を押し進める根源的な力として想定されたのが、"élan vital"「エラン・ヴィタール 生命の飛躍(生の飛躍)」である。
国際舞台での活躍[編集]
国の内外で名声の高まっていったベルクソンは、公の場にも引っぱり出されるようになる。第一次世界大戦中の19171918には、フランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣された。また、大戦後の1922には、国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員会の委員に任命され、第一回会合では議長となって手腕を振るった(ちなみに、当時の国際連盟事務次長であった新渡戸稲造とも面識があった)。1930、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。
また、ベルクソンの文章は、明快かつ美しい文章で書かれているため、散文としての評価も高く、1927にはノーベル文学賞を受賞している。
『二源泉』[編集]
こうした公的活動の激務のなかでも、ベルクソンの著作を書く意欲は衰えず、1932に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。
すなわち、創造的進化の展開のうち、エラン・ビタール、そして天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在が緊張の極に置かれ、かかる特権的個人の行為を通じて発出するエラン・ダムールによる地上的持続の志向と参与を真の倫理的・宗教的行為であるとした。
晩年[編集]
晩年には、進行性の関節リウマチを病み、苦しんでいた。1939第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍の進撃を避け田舎へと疎開するが、しばらくしてパリの自宅へ戻っている。これは、反ユダヤ主義の猛威が吹き荒れる中、同胞を見棄てることができなかったからだといわれている。清貧の生活を続けるも、1941の初頭に凍てつく寒さの中、ドイツ軍占領下のパリの自宅にて風邪が悪化したことにより、ひっそりと世を去った。ドイツ軍占領下ということもあって、参列者の少ない寂しい葬儀を終えた後、パリ近郊のガルシュ墓地に埋葬された。

パンテオンに刻まれたベルクソンの碑文
葬儀に参加したポール・ヴァレリーは、
アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であったが、それとともに、偉大な人間の友であった
と弔辞を述べて、ベルクソンを讃えている。
ベルクソンの死から26年を過ぎた1967、その功績が讃えられ、パンテオンにベルクソンの名が刻まれ、祀られることとなった。
その著作と生涯によって、フランスおよび人類の思想に栄誉をもたらした哲学者 ── アンリ・ベルクソン— パンテオンに刻まれた碑文
思想[編集]
生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタインが相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。
一方で、ベルクソンは新プラトン主義プロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンはテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913英国心霊現象研究協会の会長に就任している。
こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される[要出典]
影響[編集]
ベルクソンの哲学は、当時の人々だけでなく、後の世代にも大きい影響を与えた。その影響は、弟子のガブリエル・マルセルマルティン・ハイデッガージャンケレヴィッチウィリアム・ジェームズサルトルバシュラールレヴィナスメルロ=ポンティアルフレッド・シュッツエティエンヌ・ジルソンジャック・マリタンドゥルーズ西田幾多郎といった哲学者たちのみならず、政治哲学者のジョルジュ・ソレルや作家のプルーストなど幅広くに及んでいる。
小林秀雄は、1958年から63年に<ベルクソン論>を「感想」のタイトルで、『新潮』に連載したが未完作に終わり生前は未刊行であった。2001年より刊行開始した『小林秀雄全集 別巻1』と、『小林秀雄全作品 別巻12』(現代かなづかい・語注入り、各 新潮社)に収録された。

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