2014年9月11日木曜日

死とナショナリズム 柄谷定本 第四巻 その2

序説 ベネディクト・アンダーソンによれば、『想像の共同体』としてのネーションの核心に、個体の不死を保証するものを見出した。ネーションがカントのいう超越論的仮象であるとは、それが感覚ではなく理性に根ざすものであり、単なる知的啓蒙によっても、容易には取り除けないということだ。
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/sakabe.html1.がくわしいが。。。。
1)死の欲動 前期フロイトは快感原則と現実原則の二元論をとっていたが、後期フロイトでは、死の欲動として超自我を、生の欲動としてエスを想定した。第一次大戦後は『民族自決』を国際標準としたため、それ以後の帝国主義は、後進資本主義国においては、アーリア民族主義や大東亜共栄圏など、一見ナショナリズムを否定するかのような意匠をまとった。フロイト本人は否定しているが死の欲動は第一次大戦後戦争神経症からフロイトが得た概念で、社会も超自我をもつことがあるとした。フロイトはこう考えた。ワイマール体制は超自我の抑圧と読まれるべきで、個人としての神経症からは癒えるべきだが、『文化』としての神経症からは癒えるべきではないと。
2)崇高とユーモア 3)世界共和国 4)文化への不満 フロイトは『月曜日、絞首台に引かれていく罪人が、「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言った』などをユーモアの例としてあげており、ユーモリストは超自我がイドに優越するものとしている。彼は、超自我を、それまでのように、単に抑圧し検閲するものとしてではなく、『おびえて尻込みしているイドに、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるもの』として見出した。初期から後期へのフロイトの変化と、初期から後期へのカントの変化には、著しい並行性が、特にユーモアとサブライム(崇高)に関して認められる。不快をある種の快として見出すのは美ではなく、崇高であるとカントは言った。夜は崇高で、昼は美である。『主観の無制限な能力を主観自身の無能力によってのみ美学的に判定しうる』というのが崇高の定義である。本当の自己『自律』とは、自我の二重化ー自我と超自我ーによって可能である。このような二重化は、経験論的自我(対象化された自己)と超越論的自己(対象化する自己)という二重化とは似て非なるものである。後者はロマン的イロニー経験的な自己を冷やかに眺める超越的自己意識つまり過剰な自意識しかうまない。カントの崇高においても、対象の巨大さと自己の無力を認めつつ、『そんなことは何でもないよ』とつぶやく超自我が働いている。

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