超自然的原理を参照して自然をみる:超自然思考 ->超自然的:イデア、形相(エイドス)、キリスト教の神、理性(デカルト、カント)
自然に包まれて生き、その中で考える:自然的思考(反哲学)ー>自然(フュシス)、質量(フューレー) プラトンとアリストテレスはちょっと差がある!アリストテレスは自然的思考の余地をのこした。
自然学のあとに教える学問:メタ・フュシスという意味しかなかったのが超自然学=形而上学と読み込まれるようになった.アウグスチヌスはプラトン学を基本に『神の国』を書いたが、529年、東ローマ帝国で哲学禁止令がだされ、イスラム圏でアリストテレス学が継続され十字軍により12世紀初めにイタリアに伝わり、トマスアキナスは『神学大全』で教義の再編をおこなった。しかし16世紀、新教改革で再びプラトン主義が復活する、同時期のデカルトのコギトは神の出張所といえる。 ガリレオは数学で自然を説明できるとしたが、どうしてそうなのかは述べなかった 数学的抽象能力は生得的であり、神から与えられているとデカルトは考え精神の身体への優位を説いた。さらにカントは、神の保証を必要としない啓蒙的理性を説いた。対象がわれわれの認識に依存しており、もの自体にはふれられないとした(コペルニクス的転回)、そして、その限界のなかで、自然の理性的支配の基礎を説いたが、ヘーゲルは社会さえも理性で支配できるとし、観念論を完成した。
しかし、ニーチェはこれを転倒し(反哲学のはじまり)、ありもしない超感性的諸価値を信じることをニヒリズムとして退けた。しかし、ニーチェが本質存在と事物存在にわけているのは、まだ哲学的だとハイデガーは批判した。ザインは伝統的に制作的と考えられたきたが(es gibt)、ギリシャ自然哲学にもどれば、ロゴスから生まれるものと考えるべきと主張した。人間よりも存在のほうが、そしてその住まいである言葉のほうが重要とかんがえ、アンチヒューマニズムを説いた。そのうごきは構造主義、ポスト構造主義にうけつがれた。
この本を紹介してくれた友人にあてて
いやあ、面白かった 柄谷の「哲学の起源」がギリシャ自然哲学の薀蓄本なのですが、どうして重要なのか今一わからんかったのです。なりなりて、うみうまれる生命を根源とおいたところが大事なのですね。それに対して、たぶんエジプトの一神教の影響でしょうが、万物は勝手に生成するのでなく、ある型枠(イデア)から作られてこの世に投げ込まれていると考えたのがプラトンなのですね。ソクラテスは微妙な位置にありますね。ニーチェが制作的思考を排し反哲学を再開し、ハイデガーにつながるのですね ところで、なりなる、うみうまれるのは古事記の世界。現代思想は、太古より日本人には親しみがあるわけですか。ニューアカデミズムなどはそれだったのでしょうか?
ところで、ちょうど中間にあるインドでは輪廻が中心課題ですね輪廻思想は、ユーラシアの西と東にどう影響したのでしょう? とりあへずウィキしたところ、龍樹という人が釈迦と同等に重要のようで、すこし勉強してみよう思います
追伸 柄谷の柳田論は、どういう位置にあるのか、いまいち不分明でしたが 上記哲学を大和心でやってみようとした先人への敬意なのでは?岩波新書 丸山眞男を読んでいて、ふと思いました
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