第1部「1928年4月7日」[編集]
第1部はベンジャミン・"ベンジー"・コンプソンの語りである。ベンジーはその白痴故に一家の恥の源となっている。ベンジーの世話を心から行おうという数少ない人物はその姉のキャディと黒人女召使のディルシーである。その語りは全体に脈絡の無さで特徴付けられている。その期間はベンジーが3歳の1898年から現時点の1928年までであり、継ぎ目の無い意識の流れの中で出来事が寄せ集められている。この部における斜字体の存在は話の重要な転換を示すように意図されている。当初フォークナーは時間の移動を表すために異なる色のインクを使おうとした。この部の時間軸の錯綜はこの小説を特別に難しくしているが、この文体が全体のリズムを形成し、時間軸が整っていないとしても、多くの人物の真の心の動きに対する先入観念のない見方を提供している。さらにベンジーの世話をする人物が時代を追って変わって行くことで時の移りが分かる。現時点のラスター、ベンジーが10代のときのT・P、乳幼児のときのヴァーシュがその例である。
この部ではベンジーの3つの愛情を見ることができる。すなわち炉火の光、かつてコンプソン家のものだった土地に造られたゴルフ場、および姉のキャディである。しかしキャディは生んだ子供が夫との間の子ではなかったために夫から離婚され、現時点ではコンプソン家から消えてしまっている。一家は長男のクウェンティンをハーバード大学で学ばせるための金を作るために地元のゴルフクラブにお気に入りの牧場を売ってしまっていた。小説の冒頭でベンジーは召使の少年ラスターと同行しており、ゴルフ場のゴルファー達を見ながらお気に入りの姉の名前「キャディ」をゴルファー達が呼ぶのを聞こうと待っている。ゴルファーの一人がゴルフ・キャディを呼んでいるとき、ベンジーの心の中では姉に関わる記憶がめまぐるしく入れ替わり、一つの重要な出来事に行き着く。つまりコンプソン家の子供達4人の祖母が死んだ1898年であり、その葬儀の間子供達は外で遊ぶことを強いられている。キャディは家の中で進行していることを見るために庭の木に登り家の中を覗いているが、その兄弟、クウェンティン、ジェイソンおよびベンジーは上を見上げてキャディの下着が泥で汚れていることに気付く。この出来事はベンジーの最初の記憶であり、残りの物語を通して彼はキャディと樹木を結びつけて考えるようになる。現にベンジーはしばしばキャディは樹木の匂いがすると発言する。この部の中でもう一つ重要な出来事は、ベンジーの障害が明らかになった1900年に、それまでのモーリーからベンジーに名前が変えられたことである。モリーは伯父(母の兄)の名前を貰ったものだった。1910年のキャディの結婚と離婚、および門の鍵が外れていてベンジーが監視されていなかった時に少女を襲ったことからベンジーが去勢されたことはこの部のなかで簡潔に語られている。
第2部「1910年6月2日」[編集]
コンプソン家の子供達の中でもっとも知的で自責の念に苦しめられているクウェンティンはフォークナーの叙述法の好例を与えている。クウェンティンはハーバード大学の一年生であり、ケンブリッジの通りをうろつきながら、死を考え、妹のキャディと家族が離反したことを回想している。第1部と同様にその叙述は厳密に時系列ではないが、ハーバードにいるクウェンティンと記憶の中にいるクウェンティンとのあざなえる2つの糸ははっきりと区別できる。
クウェンティンの主要な妄想の対象はキャディの処女性と純潔である。南部の騎士道精神に取り付かれ、特に妹を初めとする女性の保護を必要と考えている。キャディが性的な放縦さに陥ったとき、クウェンティンは驚愕する。父親に援助と相談を持ちかけるが、実用主義のコンプソン氏は処女性は男が創作したものであり、深刻に考えるべきではないと告げる。さらに時が全てを解決するとも言う。クウェンティンは父が間違っていることを証明しようと時間を費やすが、できないでいる。1909年秋にクウェンティンがハーバードに向けて旅立つ直前に、キャディはドールトン・エームズの子供を妊娠し、クウェンティンはエームズと対決する。二人は戦い、クウェンティンが惨めに敗北する。キャディはクウェンティンのために二度とエームズとは話をしないことを誓う。クウェンティンは父に近親相姦を犯したと告げるが、父は彼が嘘をいっていることが分かる。「すると彼、おまえはあの娘(こ)にそれをさせようとしたのかね。 そこでぼく ぼくはこわかったんです妹がそうするんじゃないかと思ってこわかったんですそれにそんなことをしたってなんにもならなかったでしょう[2]」クウェンティンの近親相姦という観念は、もし彼らが「何かひどくおそろしいことをしてしまって、ぼくたち二人のほかはみんな地獄から逃げだしてしまいさえするものなら[3]」、彼女がどのような罪にたえるとしても彼女と結合することで妹を守ることができるという観念から形作られている。クウェンティンの心の中ではキャディの罪に対して責任を取る必要があると感じている。妊娠し一人ぼっちと感じたキャディはハーバート・ヘッドと結婚する。クウェンティンはヘッドに反発するが、キャディは決断している。彼女は出産するまえに結婚しなければならない。ハーバートはその子供が自分の子ではないと分かり、母(キャディ)とその娘を恥辱の中に追いやる。クウェンティンは授業をサボってハーバードをうろついているが、キャディを失ったことに対する悲痛の過程を辿っている。例えば、英語をしゃべれないイタリア人移民の少女と出遭う。ここで重要なことはクウェンティンが少女を「おねえちゃん」("sister")と呼ぶことであり、その日の大半を通して少女との対話を試み、少女の家を見つけてあげようとするが、徒労に終わる。クウェンティンは南北戦争後の南部の凋落と浅ましさを悲観する。彼の周りの世界における超道徳性に対処できずに自殺する。
この小説を初めて読む者の多くはベンジーの部が難しいと言うが、その同じ読者がクウェンティンの部は近づきやすいと言うことが多い。時点の転換が頻繁に行われるだけでなく、(特に終わりの方で)フォークナーは完全に文法、綴り、あるいは句読点を無視していることが多く、区切りのない言葉、句、文を長ったらしく書き続け、ある思考が終われば、次の思考が始まっている。この混乱はクウェンティンが重い抑鬱状態にあり、精神に異常を来たしかかっているためである。それゆえにこの部は弟のベンジー以上にクウェンティンを信頼できない話者に仕立て上げている。この部の非常な複雑さの故に文学者が最も広範に研究する対象になっている。
第3部「1928年4月6日」[編集]
第3部はコンプソン家の母キャロラインのお気に入りで3番目の子供のジェイソンによって語られている。時は第1部ベンジーの前の日で、グッドフライデー(復活祭前の金曜日)である。3人の兄弟が登場する3つの部の中で、ジェイソンの部は最も単刀直入であり、物質的豊かさに対するその独りよがりの欲望を反映している。1928年では、父の死後にジェイソンが一家の経済を支える者になっている。母、ベンジーおよびミス・クウェンティン(キャディの娘)を養い、さらに召使の家族も居る。ジェイソンの役割は彼を辛らつで皮肉屋にしており、兄や姉にあったような感受性はほとんど見当たらない。彼はミス・クウェンティンの唯一の保護者とキャディに認めさせ、キャディが娘のために送ってくる養育費を着服している。
この部はこの小説で時間を追って語られる最初の部分である。グッドフライデーの時間の進行を追いながら、ジェイソンは再び逃げ出したミス・クウェンティンを探すために仕事を放り出しており、いたずらを求めているようにも見える。ここでコンプソン家の2つの支配的な流れの間にある諍いを見ることができる。ジェイソンの母キャロラインはそれを自分と夫の血筋の間の違いのせいにしている。ミス・クウェンティンの向こう見ずで感情的なところは祖父から受け継いだものであり究極的にコンプソン家のものである。一方、ジェイソンの無慈悲な皮肉屋という性格は母方から受け継いだものである。この部はコンプソン家の家庭内生活についてはっきりとしたイメージを与えてくれており、ジェイソンや召使にとっては心気症のキャロラインとベンジーの面倒を見ることを意味している。
第4部「1928年4月8日」[編集]
第4部は復活祭の日である。この部は単一の話者の視点からは語られていないが、黒人召使一家の強力な女家長であるディルシーに焦点が当てられている。ディルシーは没落するコンプソン家とは対照的にその信仰から大きな強さを得ており、死に体の家族の中で誇り高き人物として君臨している。ディルシーが外を見ることでその強さを得ているのに対し、コンプソン家は内面を見ることで弱くなっているということもできる。
この復活祭の日に、ディルシーはその家族とベンジーを黒人教会に連れて行く。彼女を通じてコンプソン家が長年暮らしてきた退廃と堕落の結果を感じ取ることができる。ディルシーは不当な待遇を受け虐待されているが。それでも一家に忠誠なままである。ディルシーは孫息子のラスターの助けでベンジーの面倒を見ており、彼を教会に連れて行って救済をもたらそうとする。説教師の教えによってコンプソン家のために泣き始め、現在目撃しているコンプソン家の崩壊を通じて見て来たものを思い出させられる。
一方、ジェイソンとミス・クウェンティンの間の対立は避けられない結果に達する。一家はミス・クウェンティンが夜の間に見世物小屋の雇い人と共に逃げ出したことを発見する。ミス・クウェンティンはジェイソンが箪笥の中に隠していた現金を発見し、自分の金(キャディからの養育費をジェイソンが着服していた)と金の亡者になっていた叔父が生涯貯めてきた金を取っていく。ジェイソンは警察に行って自分の金が盗まれたと告げるが、ミス・クウェンティンの金を着服していたことを認めることになるので、それ以上追求できない。それ故に自分で彼女を見つけようと出発するが、近くのモットソンの町で彼女の足跡を見失い、去るままに任せてしまう。
この小説は大変強く、不安なイメージで終わる。ディルシーは教会の後で孫のラスターに、家族の老朽化した馬と馬車(もう一つの崩壊の印)でベンジーを墓地まで連れて行くことを認める。ベンジーは決まりきった生活に嵌まり込んでいたので、その経路のちょっとした変化でも怒らせることになるはずだったが、ラスターはお構いなしに広場の記念碑の周りをいつもと違う方向に曲がろうとする。ベンジーのヒステリックな泣き声と衝撃的な喚きは、誰でもないジェイソンだけが黙らせることができた。ジェイソンはベンジーを宥める最善の方法を知っていた。ジェイソンはラスターを突き飛し、馬車を回したので、ベンジーは急におとなしくなる。ラスターがベンジーを振り返るとベンジーが花を落としているのが分かり、ベンジーの目は「再びうつろで、青々と澄みわたっていた[4]。」
付録: 1699年–1945年、コンプソン家の人たち[編集]
1945年、フォークナーはこの小説に関する付録を書いて、出版予定だった選集『ポータブル・フォークナー』の中に掲載した。しかし、フォークナーの依頼で、その後の『響きと怒り』の再版にはその最後にこの付録が付けられることが多い。第5部だといわれることもある。『響きと怒り』出版から16年後に書かれたこの付録は小説本文と多少の異同を含んでいるが、小説の筋で不透明だったところを明らかにしている。
この付録はコンプソン家の歴史を編年体で完成させたものである。先祖のクウェンティン・マクラカンが1779年にアメリカに渡って来たときに始まり、小説の時点(1928年)以降に起こった出来事も含んでいる。特にキャロライン・コンプソンが1933年に死に、ジェイソンはベンジーを州立精神病院に送りつけたこと、黒人召使を解雇したこと、コンプソン家の最後の土地を売却したこと、その農業用品店の上にあるアパートの一室に転居したことが語られている。またジェイソン自身がベンジーの法的な庇護者であることをずっと昔に宣言しており、母には知らせずにこの位置づけを利用してベンジーを去勢させたことも明かされている。
この付録ではキャディのその後も分かる。小説の中では娘のクウェンティンがまだ赤ん坊のときに現れたのが最後だった。キャディは二度目の結婚と離婚を経験した後、パリに行ってドイツ占領下の時を過ごす。1943年、ヨクナパトーファ郡司書が雑誌の写真の中に、ドイツ軍参謀の将軍と共に居るキャディを発見し、ジェイソンとディルシーそれぞれに彼女を救おうと呼びかける。ジェイソンは一瞥して写真の女性がキャディだと認めるが、司書が助けを求めていることが分かると否定しに掛かる。ディルシーは全く写真を見ることができない振りをする。その司書は後に、ジェイソンがキャディに対して冷たく同情的ではないこと、ディルシーはキャディが他に救うだけの値打ちのあるものが残されていないので、救われたいという思いもその必要もないことを単に理解したということを悟った。
この付録はコンプソン家の召使を務めた黒人一家を列挙することで終わっている。コンプソン家の家族については長く詳細に語り、全知の観点から書かれているのに対し、召使達についてはシンプルで簡潔である。最後に登場するディルシーの場合は、「彼らは耐え忍んだ」という英語では2語だけで終わっている。