2019年10月21日月曜日

社会学史 その2 大澤真幸 および予定説

デュルケーム: まず無意識を現象学的に定義する。それの存在論的な位置が、通常の
思考のそれでないような思考、その存在論的な位置が個体の外にある(かのように現れる)思考、と。こう定義すると、無意識の発見は『社会の発見』に限りなく近づく。
『自殺論』のモチーフ:自殺は社会学的に説明できるんだ。自殺には①自己本位的自殺
②集団本位的自殺③アノミー的自殺の3種がある。プロテスタントではカトリックより自殺が多い、理由は①の多いことだろう。社会統合が弱体化し、個人化が進行したことによる自殺である。②は、例えば殉死。アノミーとは?社会的な規範がもっている、人間に対する拘束力が低下して、社会解体の傾向が生じている状態。社会変動が激しく、人間の欲望を抑制する枷となっている要素が失われるとアノミー的自殺が生じる。①と③は同じではないか、すなわち両者を区別しにくいことこそ近代社会の特徴である。
 社会は物である。外在性と規制性によって。規制の集合は社会的事実と呼ばれるが、観念の産物という点を強調すれば集合表象(例:宗教)もしくはイデオロギーである。こういう立場を方法論的集合主義という。つまり集団の性質から個人の行動を規定するような方法で説明する手法。注:対極はウェーバーの方法論的個人主義。
社会学は科学的実験ができないから、各社会の比較が『実験』の立場を占める。
分業から宗教へ:文明の発展で機械的連帯(氏族社会)から有機的連帯(分業社会)へ、ただし分業には有用なものと有害なものがある.恐慌や労使対立はアノミーをうみ社会秩序を破壊する このように分業は脆弱性を内包しているが、それを救うのは宗教だ。
聖なるものの信念に基づく行事と教会による社会連帯が宗教の基本である 注:マルクスとデュルケームは対極
ジンメル
 都市的感性。『ベルリン・天使の詩』傍観者にとどまらざるを得ない天使(ジンメルは社会学者をこういうものと規定)、この悲哀のゆえ不死をすてて天使は人間になるという映画 注:天使でありつつ人間でもあることをウェーバーは訴求社会圏が拡大していくのが近代の特徴で、集団としてのアイデンティティは希薄となる、結果自己責任が主流となる。結合と分離の絡み合いがジンメル社会学の神髄 社会の本質は社交形式をともなう相互行為にある マルクスは労働価値説だがジンメルは、新古典派のような限界効用説(欲望が価値をきめる)をとる 18世紀の自由とちがい19世紀の自由は平等とのトレードオフという特徴がある

ウエーバー
客観性論文:価値自由:事実判断を価値判断から区別すること 社会学は前者を対象にする だから価値から自由である
ただし事実判断の結果として社会の目的や価値を明示することはできる
理念型:ある現象に関して特定の観点からみて有意義なものを抽出しった概念構築物(例:禁欲プロテスタント的資本家)
両者はトレードオフの関係にあるが、ウェーバーは両立せよと説く
主観的社会行為を解明的に理解し経過と結果を因果的に理解することが社会学である
近代とは合理化が進んでいく過程だが、ただ西洋においてのみ徹底的に実践された
支配の正当性:カリスマ、伝統、官僚の3タイプあり この場合の官僚制は合法的なものでシナのそれは含めない宗教の合理化とは脱呪術 呪術から宗教を隔てる差異こそ合理性の源泉 その極限がプロテスタントの予定説
ウェーバーの意識しない合理性の2種類
社会的行為の4類型:感情的、伝統的、目的合理的(伝統の否定)、価値合理的(感情の否定)後2者は、支配の合理性(官僚的)が分割されている これを詳述したのがプロ倫
利潤を追求する職業に宗教的な意義(召命)があるため、時は金なりで合理的に行動する、これが資本主義の基礎。予定説は、神の人間に対する超越性ということを徹底させたときに導かれる教義(ルタ・カルヴァン)宗教の合理化が極限になると、人間が全能であるべきよう神を救う逆転が起こる(世俗内禁欲)信条倫理と責任倫理:政治家は2者を両立すべきである

最後の審判における予定説にもとづくプロテスタントの倫理

A 透明な箱   1000万円
B 不透明な箱  0円(地獄)または10億円(天国)

選択H1(世俗内禁欲):Bをとる
選択H2(怠慢)   :AとBの両方をとる

予見者は、H1をとる選択をした人にはBに10億入れる選択をする
予見者は、H2をとる選択をした人にはBに0円入れる選択をする
この場合、予見者の選択にかかわらずH2が絶対有利だが
予見者が神である場合は、信者はH1を取らざるをえない
天国はBにしかないから。。。。

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