2015年10月30日金曜日

『短篇小説の魅力』の抜粋

「作者は何を伝えたかったのか」という考え方をしているかぎり、私たちは本当にその作品を味わうことはできません。ならばどうしたら良いのか。

「ある物語についてその主題を論じられる場合、すなわち物語の本体から主題を引き離せるとき、その作品はたいしたものではないと思っていい。意味は、作品の中で体を与えられていなければならない。具体的な形にされていなければならない。物語は、他の方法では言えない何かを言う方法なのだ。作品の意味が何であるかを言おうとしたら、その物語の中の言葉がすべて必要である。それは何についての物語か、とたずねる人がいたら、正当な答えはただ一つ、その物語を読めと言ってやるしかない」(フラナリー・オコナー『秘儀と習俗』 春秋社)

2015年10月13日火曜日

フランス革命から第二帝政まで

フランス第一共和政(フランスだいいちきょうわせい、Première République française:French First Republic)は、フランス史上初の共和政体である。8月10日事件によるブルボン王政打倒を経て国民公会によって共和政が宣言された1792年9月21日から、ナポレオン1世の下で帝政が宣言された1804年5月18日まで存続した[1]。(テルミドールのクーデターとは、1794年7月27日フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命時における山岳派独裁の反対派によるクーデターである。)
第一共和政は、少なくとも3つの時期に分けられ、3つの政体があった。すなわち、1792年9月20日から1795年10月26日までの国民公会期、1795年11月2日から1799年11月9日までの総裁政府期、1799年12月24日から1804年5月17日までの統領政府期である。
フランス第一帝政(フランスだいいちていせい)は、1804年から1814年および1815年まで存続した、皇帝ナポレオン1世による、強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権。
復古王政(ふっこおうせい、フランス語:Restauration)は、フランス史上、1814年のナポレオン没落後、1830年の七月王政成立までの時代を指す。注:1815年の王政復古は1830年に7月革命で終わり、ブルジョアのための七月王政が始まった。ちなみに『ゴリオ爺さん』は1819年を描いたもの。
1832年のパリ蜂起フランス語:Insurrection républicaine à Paris en juin 1832)は、1832年6月5日から6日にかけて発生した、パリ市民による王政打倒の暴動である。1830年七月革命により誕生したルイ・フィリップ七月王政を打倒すべく、王政の強力な支柱であった首相カジミール・ピエール・ペリエ1832年5月16日に死去した隙を突いた形で、レプブリカンが起こした反乱であり、この鎮圧をもって七月革命以来の実力的闘争は沈静化する。次の暴動は1848年である。ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』において、後半のクライマックスとなる場面の暴動である。)
注:スタンダールの『赤と黒』は、別名1830年代記となっている。
7月王政(しちがつおうせい)は、1830年7月29日フランスで勃発した7月革命の後、オルレアン家ルイ・フィリップを国王とした立憲君主制王政オルレアン朝(オルレアンちょう)とも呼ぶ。1848年2月24日に勃発した2月革命で打倒された。典型的なブルジョワ支配体制で、貴族制の廃止や世襲制の廃止などが実行される一方で、選挙権保持者は前代の復古ブルボン朝に比べ倍増したもののそれでも全国民の0.6%しかいなかった。労働者は無権利に等しく、彼らを抑圧する形で産業革命がフランスで進行する。しかし、普通選挙を求める声が次第に高まり、それが2月革命のきっかけとなった。

六月蜂起(ろくがつほうき、フランス語les journées de Juin)は、1848年6月23日から6月25日のフランス労働者による暴動である。第二共和政失業者に仕事を与えるために創設した国立作業場の閉鎖後に起きた。ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍による鎮圧で、1,500人が殺害され15,000人の政治犯がアルジェリアに追放された。その後カヴェニャック将軍が行政権の長に指名され、ルイ・ブランはその政府から司法による迫害を受けた。このことは「民主的社会的な共和制」(République démocratique et sociale)の望みの終焉と、急進的共和主義者Radical Republicans)に対する自由主義者の勝利を示した。第二共和政はこうしてはじまるも、1851年、ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデタで第二帝政になる。