2014年9月22日月曜日

反哲学 木田元 感想

超自然的原理を参照して自然をみる:超自然思考 ->超自然的:イデア、形相(エイドス)、キリスト教の神、理性(デカルト、カント)
自然に包まれて生き、その中で考える:自然的思考(反哲学)ー>自然(フュシス)、質量(フューレー) プラトンとアリストテレスはちょっと差がある!アリストテレスは自然的思考の余地をのこした。
自然学のあとに教える学問:メタ・フュシスという意味しかなかったのが超自然学=形而上学と読み込まれるようになった.アウグスチヌスはプラトン学を基本に『神の国』を書いたが、529年、東ローマ帝国で哲学禁止令がだされ、イスラム圏でアリストテレス学が継続され十字軍により12世紀初めにイタリアに伝わり、トマスアキナスは『神学大全』で教義の再編をおこなった。しかし16世紀、新教改革で再びプラトン主義が復活する、同時期のデカルトのコギトは神の出張所といえる。 ガリレオは数学で自然を説明できるとしたが、どうしてそうなのかは述べなかった 数学的抽象能力は生得的であり、神から与えられているとデカルトは考え精神の身体への優位を説いた。さらにカントは、神の保証を必要としない啓蒙的理性を説いた。対象がわれわれの認識に依存しており、もの自体にはふれられないとした(コペルニクス的転回)、そして、その限界のなかで、自然の理性的支配の基礎を説いたが、ヘーゲルは社会さえも理性で支配できるとし、観念論を完成した。
しかし、ニーチェはこれを転倒し(反哲学のはじまり)、ありもしない超感性的諸価値を信じることをニヒリズムとして退けた。しかし、ニーチェが本質存在と事物存在にわけているのは、まだ哲学的だとハイデガーは批判した。ザインは伝統的に制作的と考えられたきたが(es gibt)、ギリシャ自然哲学にもどれば、ロゴスから生まれるものと考えるべきと主張した。人間よりも存在のほうが、そしてその住まいである言葉のほうが重要とかんがえ、アンチヒューマニズムを説いた。そのうごきは構造主義、ポスト構造主義にうけつがれた。

この本を紹介してくれた友人にあてて

いやあ、面白かった 柄谷の「哲学の起源」がギリシャ自然哲学の薀蓄本なのですが、どうして重要なのか今一わからんかったのです。なりなりて、うみうまれる生命を根源とおいたところが大事なのですね。それに対して、たぶんエジプトの一神教の影響でしょうが、万物は勝手に生成するのでなく、ある型枠(イデア)から作られてこの世に投げ込まれていると考えたのがプラトンなのですね。ソクラテスは微妙な位置にありますね。ニーチェが制作的思考を排し反哲学を再開し、ハイデガーにつながるのですね ところで、なりなる、うみうまれるのは古事記の世界。現代思想は、太古より日本人には親しみがあるわけですか。ニューアカデミズムなどはそれだったのでしょうか?
 ところで、ちょうど中間にあるインドでは輪廻が中心課題ですね輪廻思想は、ユーラシアの西と東にどう影響したのでしょう? とりあへずウィキしたところ、龍樹という人が釈迦と同等に重要のようで、すこし勉強してみよう思います

追伸 柄谷の柳田論は、どういう位置にあるのか、いまいち不分明でしたが 上記哲学を大和心でやってみようとした先人への敬意なのでは?岩波新書 丸山眞男を読んでいて、ふと思いました

2014年9月21日日曜日

日本近代文学の起源 柄谷定本集 第一巻

1 風景の発見: ①明治になり遠近法洋画とともに、それまで描かれなかった近代的個人による風景描写が出現した ―― 国木田 忘れ得ぬ人々 ―― ②風景という、それまで背景だったものが従前の宗教・歴史的主題にとってかわる。
2 内面の発見: ①言文一致は形象(漢字)の抑圧をもたらし、近代的個人に特有の内面描写(三人称単数客観描写)が可能となった ―― 国木田 武蔵野 ―― ②団十郎と黙阿弥の演劇改良は写実的かつ言文一致的であった
3 告白という制度: ①近代は性を抑圧し、ゆえに『性』の告白が可能となった ―― 田山花袋 蒲団 ―― ②佐幕藩子弟は多くキリスト教に惹かれた(大正昭和初期のマルクス主義のように)、庶民の間には普及しなかったようだ キリスト教はプラトニックラブを称賛したので、性的告白が重要になった
4 病という意味: ①西欧では18世紀に結核は、その痩身病苦の姿がロマチシズムと結びつき、19世紀に結核菌の発見により隔離の対象となった 近代日本には、これらが合わせて入ってきた ―― 徳富蘆花 不如帰 ―― ②『国文学』は、国学・漢文学を制度的に排除し中心化することによって確立された
5 児童の発見: ①近代の『児童』という概念は、ごく近年に発見形成された『風景』の一種。日本では児童文学は明治20年より10年ほど遅れ30年頃に発生した ②近代以前、大人と子供の間には青春期などはなかった。神経症における幼児退行とは近代社会特有の現象である ーー樋口一葉 たけくらべ --
6 構成力について: ①近代文学は『深さ』をもたらした。フロイトの深層心理、マルクスの下部構造は当人たちの意図から離れ、『知の遠近法』の基本理論となった ②当初、上記の流れの擁護者だった鴎外は晩年、纏まりをつける、つまり構成を嫌悪するようになった。これは日本独自の『私小説』(志賀直哉)につながった。-興津遺書(初版)と 阿部一族の相違ー③芥川は日本の私小説を当時の世界最先端、アンチロマンとして意味づけた。これは第一次大戦後の一等国意識がベースにあるのでは? ④谷崎の『構成のある小説』とは、モノガタリであり、それゆえ貴種流離という祝祭パターンの繰り返しである。マゾキズムは圧倒的優位感情がベース。  -谷崎潤一郎 痴人の愛ー
7 ジャンルの消失:フライによれば◎ノベル(以下の以外のもの),ロマンス(人物が類型的:神話、歴史小説、SFなど)、告白(知的理論的関心から発する、『折たく柴の記』)、アナトミー(ペダンチック:ラブレー、スィフト)というジャンルがある。これらすべてを含んで近代リアリズム小説はうまれた。
①漱石は江戸文学を基本におき、それを発展させるようにロマン主義、自然主義リアリズムという流れにのっとって作品世界をつくった。猫、坊ちゃんなどは子規のめざした芭蕉俳諧にあったグロテスクな笑いの復活(写生)であり、彼の大衆的人気の源泉ともなっている。さらに虞美人草・草枕などは馬琴を思わせるという。ちなみにバフチンは16世紀に勃興した民衆の笑いをベースとしたルネッサンス文学にあったグロテスク・リアリズムは以後急激に衰退し、ロマン主義時代には皮肉を主体とする小説やホラー小説として生き残った。世界的にはグロテスク・リアリズムは民衆の連歌俳諧、西鶴、ラブレー、セルバンテス、などにあらわれる。西欧では16世紀に頂点を迎え、ロシアや中国は数世紀遅れた。ゴーゴリ、ドストエフスキー、魯迅はそういう風にみるべきである。私見だが、アメリカではマークトゥエイン、南米ではガルシャ・マルケスか?③二葉亭四迷は、ロシア文学の翻訳体験から西鶴の小説にカーニバル的世界感覚を嗅ぎ取ったが、樋口一葉も同様の方向性を持っていた。しかし、これらは忘れ去られ、自然主義リアリズム・私小説、プロレタタリア文芸、白樺派、新感覚派・新興芸術派・日本浪漫派が昭和敗戦までの文壇を形成した

2014年9月14日日曜日

美術館としての歴史、美学の効用 柄谷定本 第四巻 その3

美術館としての歴史
  フェノロサは東京美術学校をつくるにあたって、音楽学校とは逆に日本美術・東洋美術からはじめた。ナショナリズムは一般的に、美学的な意識において成立する。国学における物の哀れ論は自国中心に受け入れられたが、視覚芸術は、まず他国の認知を獲得してから自国に受け入れられる。美術館は18世紀末に形成されたが、日本では1889年である。美術館は、特権階級のものであった『知』を公共化し、時間的な順序を空間的に提示する(西洋中心主義にしたがって)。岡倉天心は、ヘーゲルの弁証法的美学を批判し、『東洋』を発見した。それは多様なるものの同一性、愛であり西田の『絶対矛盾的自己同一』にちかく、『近代の超克』の先駆者となった。彼は、日本を東洋の博物館的美術館とみなした。フェノロサのコスモポリタン主義も一種の西洋中心主義であり、エマソンの超越主義を基礎におき、反ヨーロッパを目指すものであった。そして第一次大戦後、アメリカが文化的なヘゲモニを獲得するのは1929年のNW近代美術館の設立、抽象表現主義の言説によってである。

美学の効用
 サイードの『オリエンタリズム』は公民権・ベトナム反戦運動下のアメリカでのみ受け入れられた。他者をたんに科学的対象として見下すこと(啓蒙主義)と、美的対象として見上げる(ロマン主義)ことは、互いに背馳するものではなく、むしろ相互に補完しあう。
 カントは趣味判断を、科学認識的・道徳認識的判断を括弧にいれる(無関心化)こととした。関心の放棄がむつかしいことを、能動的に放棄することに快を見出す(美術館におかれた便器を芸術とみなす行為など)。崇高とは、宗教的畏怖ではなく、その前で人間の感性的な有限性を乗り越える理性の無限性の概念と定義した。自然科学は趣味判断(美醜などの快不快の感情)・道徳判断(善悪)を括弧に入れる。さらに、貨幣経済は、科学・道徳・趣味をすべて括弧にいれ利益という関心のみがプレーヤーである。カントは純粋道徳をめざしたことき、道徳すらも基礎づける利益=幸福=効用を括弧に入れようとしたが、それは貨幣経済が確立していたからこそ可能であった。
 カントが明確にしたのは、芸術の美的中心主義は、他の諸関心を括弧にいれる主観的能動性にあることである。帝国主義とは相手を美的にのみ評価し尊敬さえすることであり、審美主義である。ファシズムも、一見して反資本主義的でありながら、そのことによって資本主義経済がもたらす矛盾を美的に昇華するものである。サイードが言いたいのは、他者が存在するということ、つまり認識対象にも美的対象にもけっしてならない個々の人間がいるというこであり、それを抑圧するものにたいして戦い続けるということである。


nation=stateと言語学、文字の地政学 柄谷定本 第四巻 その4

nation=stateと言語学
 18世紀後半のロマン派言語学は、ラテン語という文字言語の方言であった過去を忘却し、感情や内面を自由に表現するとした音声言語中心主義から民族言語の重視が生まれた(フィヒテなど)。しかし、科学的言語学は、19世紀にはじまった印欧比較言語学(史的言語学)にはじまった。
それは、言語を音韻において、すなわち、無意識な次元においてとらえると、一定の法則性を示すことを明示した。それは、語族というものを設定したため、ギリシャ語とヨーロッパ語が近縁であることより、アラビアでのギリシャ哲学の継承/発展の事実は忘却され、さらに反semitismの根拠にもなった。史的言語学は帝国主義のイデオロギーとなったが、ソシュールはその危険性を批判した。語族は、現実の民族史とは関係がないのだ。
 ソシュールは内的言語学を考えた。音声言語と文字言語は異なるとした。ロマン派とは別の論点から、話し言葉を重視したが、有機体的言語の成熟/衰退を否定した。史的言語学では、言語は、政治文化体制の継承のような外的なものによる偶然的所産の影響が無視され、あたかも内的な連続体と見なされるが、内的言語学では共時的体系を設定し、前者の目的論的/進化論的見方を否定する。差異は偶然うまれ、体系変化は非連続というとき、レマルク主義にも関わらず社会的ダーウイン主義を唱えたものたちより、はるかにソシュールはダーウイン的である。ソシュールは、言語によってあるという人間の存在条件のみを重視した。
 宣長はロマン派と相通ずる。彼は漢字(詞)仮名(辞)混交である日本語において、儒教/仏教の知/道徳に対し感情(もののあわれ)を優位においた。そして、これはナショナリズムを基礎づけた。時枝国語学は、史的言語学を否定し、国学を評価したが、他民族を日本語教育する立場になったとき、共栄圏言語としての日本語をとなえ、自己矛盾を回避しようとした。西田哲学における、
『我が国の歴史において皇室は何処までも無の有であった。矛盾的自己同一であった。』も、それに近い。

文字の地政学
 ラカンの言葉でいえば、仏教による去勢を排除したがゆえに、日本では『自己』が形成されなかった。それは文化古層としての生成的なものを維持した。(仏教、儒教、ギリシャ哲学。。。一般に哲学とは制作的なものである。)それが可能であったのは、朝鮮があったからだ。(エマソンの超越主義もアメリカの国学と考える)彼の地があるため、たまたま他民族の直接支配を受けずにすんだため、歴代の支配者は天皇をあおぐことで、支配体制の維持をはかった。権威を用いれば、暴力を節約できる。
 漢字を訓読みするとは、外来的な漢字を内面化することであり、かつ常に外部的なものとしてとどまる。明治において、西洋の概念は、漢字とカタカナで表記され、外部性を保持した。やまとことばとは、起源がわすれられ、ひらかなで表記しても不自然でないほど定着した語である。明治のキリスト教、昭和のマルクス主義は原理をもたらしたが、最終的には抑圧された。つねに日本には原理がなく、主体がない。それは神経症でなく分裂病的である。 
 フーコーはマルクス=レーニン主義を司祭型権力として批判したが、フランスには容易に解体されない『知の権力』があるので、一定の意味がある。しかし日本やアメリカでは、マッカーシズムにより大衆化社会が到来してしまった。伝統的規範から離れて主体的であるように見えて、実は、まったく主体性をもたず浮遊する大衆の誕生である。それは抑圧的な権力ではなく、排除による権力である。気づくのさえむつかしい。

2014年9月11日木曜日

死とナショナリズム 柄谷定本 第四巻 その2

序説 ベネディクト・アンダーソンによれば、『想像の共同体』としてのネーションの核心に、個体の不死を保証するものを見出した。ネーションがカントのいう超越論的仮象であるとは、それが感覚ではなく理性に根ざすものであり、単なる知的啓蒙によっても、容易には取り除けないということだ。
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/sakabe.html1.がくわしいが。。。。
1)死の欲動 前期フロイトは快感原則と現実原則の二元論をとっていたが、後期フロイトでは、死の欲動として超自我を、生の欲動としてエスを想定した。第一次大戦後は『民族自決』を国際標準としたため、それ以後の帝国主義は、後進資本主義国においては、アーリア民族主義や大東亜共栄圏など、一見ナショナリズムを否定するかのような意匠をまとった。フロイト本人は否定しているが死の欲動は第一次大戦後戦争神経症からフロイトが得た概念で、社会も超自我をもつことがあるとした。フロイトはこう考えた。ワイマール体制は超自我の抑圧と読まれるべきで、個人としての神経症からは癒えるべきだが、『文化』としての神経症からは癒えるべきではないと。
2)崇高とユーモア 3)世界共和国 4)文化への不満 フロイトは『月曜日、絞首台に引かれていく罪人が、「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言った』などをユーモアの例としてあげており、ユーモリストは超自我がイドに優越するものとしている。彼は、超自我を、それまでのように、単に抑圧し検閲するものとしてではなく、『おびえて尻込みしているイドに、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるもの』として見出した。初期から後期へのフロイトの変化と、初期から後期へのカントの変化には、著しい並行性が、特にユーモアとサブライム(崇高)に関して認められる。不快をある種の快として見出すのは美ではなく、崇高であるとカントは言った。夜は崇高で、昼は美である。『主観の無制限な能力を主観自身の無能力によってのみ美学的に判定しうる』というのが崇高の定義である。本当の自己『自律』とは、自我の二重化ー自我と超自我ーによって可能である。このような二重化は、経験論的自我(対象化された自己)と超越論的自己(対象化する自己)という二重化とは似て非なるものである。後者はロマン的イロニー経験的な自己を冷やかに眺める超越的自己意識つまり過剰な自意識しかうまない。カントの崇高においても、対象の巨大さと自己の無力を認めつつ、『そんなことは何でもないよ』とつぶやく超自我が働いている。