2016年6月30日木曜日

カート・ヴォネガット

カート・ヴォネガットの生涯
前半生 1922年にインディアナ州インディアナポリスでドイツ系移民の家庭に生まれた。彼の誕生日は第一次世界大戦の3年目の休戦記念日である。ヴォネガットはこのことを誇りとしており、後に祭日の名称が「復員軍人の日」に変更されたことについて『チャンピオンたちの朝食』の中で批判的に取り上げている。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父は共にMIT出身で、Vonnegut & Bohn というインディアナポリスの建設会社で建築士を務めていた。曽祖父は Vonnegut Hardware Company という会社を起業した人物である。1940年にコーネル大学に入学し生化学を学ぶ一方で学内紙の『コーネル・デイリー・サン』の副編集長も務めた。コーネル大学では父と同じフラタニティである Delta Upsilon に属していた。コーネル大学在学中にアメリカ陸軍に徴募される。陸軍はヴォネガットをカーネギー工科大学とテネシー大学に転校させ、機械工学を学ばせた。1944年の母の日に母のエディスが睡眠薬を過剰摂取し自殺した。生活の困窮や息子のドイツ戦線配属を苦にしたものとされている。

第二次世界大戦 カート・ヴォネガットが兵士および捕虜として戦争で経験したことは、後の作品に深い影響を与えている。1944年、アメリカ合衆国第106歩兵師団第423普通科連隊の兵卒として第二次世界大戦の欧州戦線に参加し、バルジの戦いでコートニー・ホッジス率いる第1軍から第106歩兵師団が分断され取り残された12月19日に捕虜となった。「味方のアメリカ軍とははぐれてしまった。我々はその場で戦うことを余儀なくされた。しかし銃剣は戦車には太刀打ちできない……」ドレスデンに連れて行かれたヴォネガットは、ドイツ語が少しできるということで捕虜のリーダーの1人に選ばれた。ドイツ軍守衛に「…ロシア軍がやってきたら、やってやろうと思っていること…」を話したことで打ち据えられ、リーダーの地位も剥奪された。捕虜として1945年2月の同盟軍(英米の空爆部隊)によるドレスデン爆撃を経験した。芸術品と謳われたドレスデン市街は壊滅した。ヴォネガットを含むアメリカ人捕虜の一団は、ドイツ軍が急ごしらえの捕虜収容所に使用した屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人はその建物を Schlachthof Funf(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『スローターハウス5』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記しているヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している。1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている。
戦後
1945年に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットはシカゴ大学大学院で人類学を学び、同時に City News Bureau of Chicago で働いた。これは当時5紙あったシカゴの地方紙に記事を提供する遊軍のようなものだった。『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』によれば、彼の論文テーマ(キュビスム画家と19世紀末ネイティブ・アメリカン暴動のリーダーたちとの類似点を論じるもの)は「学術的でない」という理由で大学側に拒絶されたという。1947年、彼はシカゴからニューヨーク州スケネクタディに移り、ゼネラル・エレクトリックの広報で働くようになった(兄が開発部門で働いていた)。そのころヴォネガットはスケネクタディとは川を挟んだ対岸の町に住み、数年間はボランティアの消防団員として熱心に活動した。当時彼が住んでいたアパートには、今も彼が小説を書くのに使っていた机があり、彼が自分で名前を彫った跡が残っている。そこで『スローターハウス5』を書き始めたと言われている。なお、シカゴ大学は後に小説『猫のゆりかご』の人類学的記述をヴォネガットの論文として受理し、1971年に修士号を授与した。1950年に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。1951年にマサチューセッツ州ケープコッドに居を移し、サーブのアメリカ初の販売店の店長をつとめた。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。1950年代中ごろ、ヴォネガットは短期間だけスポーツ・イラストレイテッド誌編集部で働き、柵を飛び越えて逃走しようとした競走馬についての記事を書くよう指示された。午前中ずっとタイプライタに挟まった真っ白な紙を見つめた後、彼は「馬はいまいましいフェンスを飛び越えた」とだけタイプし、編集部を去った。作家として評価されず、執筆をやめてしまおうとする寸前の1965年、ヴォネガットはアイオワ大学の Writers' Workshop での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中にはジョン・アーヴィングなどがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、20世紀アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、1966年には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』はタイム誌や Modern Libraryのベスト100に選ばれている。2007年4月11日にニューヨークにて死去。
私生活
当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄のバーナード・ヴォネガットは大気科学者で、ヨウ化銀を用いた人工降雨法を開発した。第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。マハリシ・マヘッシ・ヨギに傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子であるマーク・ヴォネガットは小児科医となった。マークは自身が1960年代に経験した統合失調症からの回復の記録である『エデン特急―ヒッピーと狂気の記録』を記した。マークの名はヴォネガットがアメリカの聖人だと考えていたマーク・トウェインからとった。娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。
姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『スラップスティック』に描かれている。1999年11月11日、小惑星 25399 Vonnegut にヴォネガットの名がつけられた。2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。ヴォネガットはフィルターのないポールモールを好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた。2007年、マンハッタンの自宅で転落して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去。
作家としての経歴
1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」でSF作家としてデビューした。処女長編はディストピア小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『タイタンの妖女』を出版。1960年代には徐々に作風が変化していった。『猫のゆりかご』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『スローターハウス5』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。また、ヴォネガット作品に繰り返し登場する人物たちも出てくる。特にSF作家キルゴア・トラウトが主役級で登場し、他の登場人物たちとやりとりする。ヴォネガットの作品には慈善家エリオット・ローズウォーター、ナチ宣伝員ハワード・W・キャンベル・ジュニア、ラムファード一族、トラルファマドール星人などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。
なかでもスタージョンをモデルに造形されたといわれるSF作家キルゴア・トラウトはカート自身の分身とも言われ『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり『タイムクエイク』では主役として活躍する。『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットがトラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している。ヴォネガットはキルゴア・トラウトの名を借りて個人的意見を作品内で表明することが多い。
また、SF作家フィリップ・ホセ・ファーマーはキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(Venus on the Half-Shell 1975年)を発表し話題となった。発表当時、これをヴォネガットの作品と誤解する読者が多く、後に作者が明らかにされるとヴォネガットは不快感を表明した(ヴォネガットはファーマーに執筆の許可を与えていたのだが、予想を超えた騒ぎに怒りを表明し、さらなる「トラウト作品」の刊行を拒否した)。
ヴォネガットは1984年に自殺未遂しており、後にいくつかのエッセイでそのことについて書いている。登場人物以外にも頻繁に登場するテーマまたはアイデアがある。例えば『猫のゆりかご』の「アイス・ナイン」である。ヴォネガット本人は「SF作家」とレッテル付けされるのを嫌ったが、一方で「現代の作家が、科学技術に無知であることはおかしい」と主張しほとんどの作品でSF的なアイデアが使用されている。それでもSFというジャンルの壁を越えて幅広く読まれたのは、単に反権威主義的だったからだけではない。例えば短編「ハリスン・バージロン」は、平等主義のような精神が行過ぎた権力と結びついたとき、どれほど恐ろしい抑圧を生むかを鮮やかに描いて見せている。
1997年の『タイムクエイク』出版に際して、ヴォネガットは同書が最後の小説になると発表し、以降はエッセイやイラストの発表、講演等を中心に活動した。2005年にはエッセイをまとめた『国のない男』を出版し、文筆業そのものからの引退を表明した。
死の直後に出版されたエッセイ集『追憶のハルマゲドン』には、未発表の短編小説や第二次世界大戦中に家族宛てに書いた手紙などが含まれている。またヴォネガット本人の描いた絵や死の直前に書いたスピーチ原稿も含まれている。序文は息子のマーク・ヴォネガットが書いている。
ヴォネガットはハーバード大学で英文学の講師をつとめたことがあり、ニューヨーク市立大学シティカレッジでも一時期教授をつとめている。
日本での受容
日本においては1960年代後半から浅倉久志、伊藤典夫等によって精力的に紹介されていた。1980年代になり日本でも主要な作品の多くが和田誠のカバーイラストと共にハヤカワ文庫SF(早川書房)より刊行された。1984年には国際ペン大会にロブ=グリエ、巴金等と共にゲストとして来日し大江健三郎とも会談している。ヴォネガットから影響を受けた日本人作家としては、第一作の『風の歌を聴け』でヴォネガットのスタイルを模写した村上春樹や高橋源一郎、橋本治等がいる。爆笑問題の太田光は熱心なファンとして知られ彼らが設立した所属事務所「タイタン」の名称は『タイタンの妖女』と「太田」の別読みをかけて付けられたものである。
政治姿勢
ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の Powers Hapgood とユージン・V・デブスは作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアのレフ・トロツキーの名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットはアメリカ自由人権協会の会員でもあった。
ヴォネガットは倫理問題や政治問題を扱うことが多かったが、具体的な政治家について言及するようになったのは小説執筆から引退してからのことである。『ジェイルバード』の主人公ウォルター・スターバックが囚人となったのはリチャード・ニクソンのウォーターゲート事件が原因だが、物語の中心はそこではない。God Bless You, Dr. Kevorkian では、論争の的となった自殺幇助者ジャック・ケヴォーキアンに言及している。
In These Times 誌のコラムでは、ブッシュ政権とイラク戦争について痛烈な批判を展開した。「我々のリーダーが権力におぼれたチンパンジーだと言ったら、私は中東で戦い死んでいっている兵士たちの士気を台無しにすることになるだろうか?」とヴォネガットは書いている。「彼らの士気は多数の死体と共にすでにばらばらになっている。彼らはまるで金持ちの子がクリスマスに与えられたおもちゃのように扱われており、それは私が兵士だったときとは全く異なる」In These Times ではヴォネガットの言葉として「ヒトラーとブッシュの唯一の違いは、ヒトラーが選挙で選ばれたという点だ」と引用している。2003年のインタビューでヴォネガットは「わが国のためには、火星人やボディスナッチャーに侵略されて戦ったほうがましだったと思う。時々、本当にそうだったらよかったのにと思う。しかし現実に起こったのは、極めて軽薄で低級な「キーストン・コップス」のようなクーデター劇だった。そしていま連邦政府を牛耳っているのは、歴史も地理もわからないお坊ちゃん学生と、それほど閉鎖的でもない『キリスト教徒』と呼ばれる白人至上主義者と、怖がりの精神病質者すなわちPP (psychopathic personalities) だ」と述べている。2003年のインタビュー冒頭で調子を尋ねられると彼は「高齢であることに夢中で、アメリカ人であることに夢中だ。それはそれとして、OKだ」と応えた。
『国のない男』で彼は「ジョージ・W・ブッシュは、彼の周囲に歴史も地理も全く知らないお坊ちゃん学生を集めた」と書いていた。彼は2004年の大統領選挙については全く楽観していなかった。ブッシュとジョン・ケリーについて彼は「どちらが勝ってもスカル・アンド・ボーンズの大統領になることに変わりはない。我々が土壌や水や大気を汚染してきたせいで、あらゆる脊椎動物が頭蓋骨(スカル)と骨(ボーンズ)だけになろうって時にだ」と述べている。
2005年、ヴォネガットはオーストラリアン紙によるデイヴィッド・ネイスンのインタビューを受けた。その中で最近のテロリストについて意見を求められ、「とても勇敢な人たちだと思う」と応えた。さらに訊かれるとヴォネガットは「彼ら(自爆テロ犯)は自尊心のために死ぬ。自尊心を誰かから奪うというのはひどいことだ。それはあなたの文化や民族や全てを否定されるようなものだ……信じるもののために死ぬことは甘美で立派なことだ」と答えた。最後の文はホラティウスの金言 "Dulce et decorum est pro patria mori"(お国のために死ぬのは甘美で適切だ)をもじったもので、ウィルフレッド・オーエンの Dulce Et Decorum Est における皮肉な引用が出典とも考えられる。ネイスンはヴォネガットのコメントに腹を立て、生きる希望をなくしテロリストを面白がっている老人だと決め付けた。ヴォネガットの息子マークはこの記事に対する反論をボストン・グローブ紙に書いた。すなわち父の「挑発的な姿勢」の背後にある理由を説明し、「まったく無防備な83歳の英語圏の人物が公の場で思っていることをそのまま言うと誤解し見くびるような解説者は、敵が何を考えているかも理解できていないのではないかと心配すべきだ」と記した。
2006年のローリング・ストーン誌のインタビュー記事には、「…彼(ヴォネガット)がイラク戦争のすべてを軽蔑することは驚くべきことではない。2500人を越えるアメリカ兵が、彼が不要な衝突と考えている状況の中で殺されているという事実は彼をうならせる。『正直なところ、ニクソンが大統領ならよかった』とヴォネガットは嘆く。『ブッシュはあまりにも無知だ』」とある。
ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」
宗教
ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身である。曽祖父のクレメンス・ヴォネガットは Instruction in Morals と題した自由思想の本を書いたことがあり、自身の葬式については神の存在を否定し、死後の生を否定し、キリスト教の罪と救済の教義を否定した言葉を言い残していた。カート・ヴォネガットは『パームサンデー』の中で曽祖父の葬儀についての言葉を再現し、自由思想が「先祖代々の宗教」だとしているが、どうしてそれが自分に受け継がれたのかは謎だとしていた。
ヴォネガットは自身を懐疑論者、自由思想家、ヒューマニスト、UU教徒、不可知論者、無神論者と様々に言い表している。超自然的なものは信じず、宗教の教義を「あまりにも独断的で明白に発明されたたわごと」だと考えており、人々が入信するのは寂しさが原因だと信じている。
ヴォネガットは自由思想の現代版がヒューマニズムだと見なしており、作品や発言やインタビューで事あるごとにヒューマニズムへの支持を表明している。Council for Secular Humanism の International Academy of Humanism に名誉ヒューマニストとして参加していた。1992年には American Humanist Association により Humanist of the Year に選ばれた。友人のアイザック・アシモフから American Humanist Association (AHA) の名誉会長の座を引き継ぎ、亡くなるまでそれを務めた[42]。AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている。
ヴォネガットは一時期ユニテリアン主義の一派ユニテリアン・ユニヴァーサリズムに入信していた[36]。『パームサンデー』には、ヴォネガットがマサチューセッツ州ケンブリッジの First Parish Unitarian Church で行った説教(アメリカ合衆国にユニテリアン主義をもたらした William Ellery Channing に関するもの)が収録されている。1986年、ヴォネガットはニューヨーク州ロチェスターでユニテリアン・ユニヴァーサリズムの集会で講演し、その原稿が『死よりも悪い運命』に収録された。同書には、ニューヨーク州バッファローで行った「ミサ曲」も収録されている[44]。ヴォネガットによれば、二度の大戦の間にアメリカ合衆国で自由思想や他のドイツ人の「宗教的狂信」の人気がなくなったとき、彼の自由思想の一族の多くがユニテリアンに改宗したという[37]。ヴォネガットの両親はユニテリアン式の結婚をしており、彼の息子も一時期ユニテリアンの聖職者だったことがある[36]。
ヴォネガットの宗教観は単純なものではない。イエス・キリストの神性を拒絶するにもかかわらず[、イエスの祝福が彼のヒューマニズムの根本にあると信じている[45]。彼は自分を不可知論者または無神論者だとしているが、同時に神についてよく語っている[37]。「先祖代々の宗教」が自由思想、ヒューマニズム、不可知論だと説明し、ユニテリアン信者であるにも関わらず、自身を無宗教だとも言っている。American Humanist Association によるプレスリリースでは、彼を「完全な俗人」だとしていた。
出演経験
アラン・メッターが監督した1986年の映画『バック・トゥ・スクール』(1986年)では本人役で出演した。
また自分の作品を映画化した Mother Night と『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』にもカメオ出演した。エンロンの広告に登場したことがある。1 Giant Leap というバンドの2002年のDVDにゲスト出演し、音楽について語っている。
2006年8月、Second Life 内でインタビューを受け、The Infinite Mind というラジオ番組で放送さた。Second Life でのインタビューの模様は YouTube で公開されている。

長編小説
長編小説はすべて邦訳されたがそのうちいくつかは現在絶版となっている。
プレイヤー・ピアノ(Player Piano 1952年)、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF、1975年
タイタンの妖女(The Sirens of Titan 1959年)、浅倉久志訳、早川書房、1972年。1973年度星雲賞(海外長編部門)
母なる夜(Mother Night 1961年)、飛田茂雄訳でハヤカワ文庫SF
猫のゆりかご(Cat's Cradle 1963年)伊藤典夫訳、早川書房、1968年
ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine 1965年)『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを : または、豚に真珠』として浅倉久志訳、早川書房、1977年。
スローターハウス5(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death 1969年)て伊藤典夫訳、早川書房、1973年。
チャンピオンたちの朝食(Breakfast of Champions, or Goodbye, Blue Monday 1973年)浅倉久志 訳 早川書房 1984年。
スラップスティック(Slapstick, or Lonesome No More 1976年)『スラップスティック : または、もう孤独じゃない!』として浅倉久志訳、早川書房、1979年
ジェイルバード(Jailbird 1979年)浅倉久志 訳 早川書房 1981年
デッドアイディック(Deadeye Dick 1982年)浅倉久志訳 早川書房 1984年
ガラパゴスの箱舟(Galapagos 1985年)浅倉久志訳 早川書房 1986年
青ひげ(Bluebeard 1987年)浅倉久志訳 早川書房 1989年
ホーカス・ポーカス(Hocus Pocus 1990年)浅倉久志訳 早川書房 1992年、のち文庫
タイムクエイク(Timequake 1997年)『タイムクエイク : 時震』として浅倉久志訳 早川書房 1998年、
短編集
いずれも初期の短編を収録している。
Canary in a Cathouse(1961年)、収められた短編の大半は『モンキーハウスにようこそ』に再録。
モンキーハウスへようこそ(Welcome to the Monkey House 1968年)伊藤典夫、吉田誠一、浅倉久志、他訳、早川書房、1983年。のち文庫
バゴンボの嗅ぎタバコ入れ(Bagombo Snuff Box 1999年)浅倉久志, 伊藤典夫訳 早川書房 2000年、のち文庫
はい、チーズ(Look at the Birdie 2009年)大森望訳、河出書房新社、2014年
エッセイなど[編集]

2016年6月28日火曜日

現代アメリカ文学 http://fooline.net/america-bunngaku/

アメリカ文学初心者におすすめの現代作家

チャールズ・ブコウスキー

ばかばかしくて可笑しくて、どこか切ない(哀愁)。そんな作品が多い、日本でも人気のアウトロー作家。この人が描く主人公は決まって飲んだくれで、頭のネジがいくつか外れていて、とにかく口が悪い(そしていつも何かに怒っている)。退廃的なキャラクターが多いですが、湿っぽさや陰気さは全くなく、むしろばかばかしくて面白い。コミカルな要素も多く笑えるシーンがたくさんあります。色々作品がありますが、特に短編小説がおすすめ。文章が淡々と進んでいくのでリズムよく読めます。アウトロー作家の作品の作品というと、ドラッグがよく出てきて抵抗がある人が多いと思いますが、ブゴウスキーの場合はそんなに出てこないので大丈夫です。(その分、酒はよく出てきます。だいたい主人公は二日酔い…)


ポール・オースター
最近は日本でもすっかり有名作家になった、ストーリーテラーの名手のポール・オースター。今や本国アメリカよりもむしろ日本やフランスの方が人気が高いようです。ポール・オースターの魅力はとにかく読みやすくてリズム感のある文章、そして何と言っても「ストーリーの面白さ」。読み進めていくとどんどん引き込まれていって止まらなくなる、そんな作品が多く、普段は外国文学をあまり読まないけど「オースターのあの作品は忘れられない一冊」という方も結構います。また、名訳に恵まれているというのも見逃せないところ。ポール・オースターの作品はほぼすべて、柴田元幸(東大教授)さんというアメリカ文学翻訳の第一人者の方が翻訳をしています。ポール・オースター本人とも親交がある名訳者が翻訳していることもあって、原文の雰囲気がしっかりと翻訳に残っています。これは実際に原文と比べてみるとわかります。ちなみに、柴田元幸さんはポール・オースターの代表作『ムーン・パレス』の訳で翻訳大賞を受賞しています。

ジョン・アーヴィング
続いてはアメリカ文学を代表する巨匠、ジョン・アーヴィング。現代アメリカ文学を紹介するなら外せない作家です。この作家もストーリーテラーの名手。特に家族などを扱った物語性の強い作品が多いです。物語がしっかりしている分、ページ数も若干多め。だいたいの長編は上下巻として分けて販売されています。特徴は、個性の強いキャラクターがたくさん出てきて、それぞれの生き方を大きなスケールで描くこと。登場人物のある時期に起こった物語としてではなく、長い人生の中で物語が描かれることが多いです。それも決して幸せで心温まるストーリーばかりとは限らない。だけど物語がしっかりと胸に刺さってくる。そんな作品が多いのが特徴です。


中級者編・アメリカ文学が面白くなってきた人におすすめ

コーマック・マッカーシー

近年、ノーベル文学賞の有力候補として注目を集めている現代アメリカ文学を代表する作家。作品がいくつか映画化(血と暴力の国:ノーカントリー)されたことで、日本でもだいぶ有名になり、翻訳される作品も増えてきました。特徴はその乾いた文体。コーマック・マッカーシーの小説はどれも、感情を削り取ったような冷徹な表現、いわゆるハードボイルドな文体で描かれます。翻訳されて日本で販売されている小説でも、そんな文体の特色が汲み取られた名訳がほとんど。

ドン・デリーロ
続いてもアメリカ現代文学を代表する巨匠、ドン・デリーロ。こちらも最近はノーベル文学賞の常連候補となっている作家なのですが、日本での知名度はなぜか低め。それなりに外国文学を読む人でも知らないという人が多いかもしれません。作風は現代社会の事柄や政治的な問題などを取り入れながら、人々のありさまを鋭い視点で的確に、そして想像力豊かに描き出そうとすること。どの作品も読み応え十分です。ただ、日本での知名度が低いがゆえに残念ながら既に絶版になっている作品が多いのが現実。映画:コズモポリスが有名。

レイモンド・カーヴァー
続いてはアメリカ現代文学における短編小説の名手、レイモンド・カーヴァー。村上春樹がその作品のほとんどを翻訳したことで、日本でも大変有名になった作家です。作風は文章の装飾を必要最低限にとどめ、シンプルに物語を描く、「ミニマリズム」という手法。平坦な文章の中にユーモアがたくさん詰まっていて、時にミステリアスでいろんな解釈を呼び起こすようなストーリーには、日本でも熱狂的なファンがいます。孤独や空虚感、家庭の崩壊や挫折をテーマにした作品が多く、それが肌に合う人にはとにかく病み付きになる作家。村上春樹が好きな人、カフェでじっくり短編小説を読みたい人にとてもおすすめです。

上級者編・アメリカ文学にハマってきた人におすすめ

リチャード・ブローティガン


ヒッピー文化を象徴する作家・詩人、リチャード・ブローティガン。アメリカ文学が好きな人の間ではおなじみの作家なのですが、おそらく一般的にはほとんど知られていないと思います。特徴は、独特な比喩やネーミングで表現される唯一無二の幻想的な世界観。まるで飛び道具のような飛躍的・芸術的なセンテンスは、好きな人には鳥肌モノですが、合わない人はただ「ポカーン…」としてしまうだけかもしれません。
いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。

— 「西瓜糖の日々」 藤本和子訳 (河出文庫)
そうだ。あの酔いどれが鱒釣りのことを話してくれたのだ。かれは口がきける状態のときは、さながら知性を備えた貴金属の話でもするような調子で、鱒のことを語るのだった。

— 「アメリカの鱒釣り」 藤本和子訳 (新潮文庫)
リチャード・ブローティガンのこの独特な作風やテーマは、当時のアメリカの若者たちから大きな支持を受け、ヒッピーやウッドストックフェスティバルなどが象徴する、1960年代アメリカの「カウンターカルチャー(対抗文化・若者文化)」の代表的な作家となりました。

スティーヴ・エリクソン
圧倒的な想像力で物語を繰り広げる「幻視の作家」、スティーヴ・エリクソン。おそらく日本ではほとんど知名度がないと思いますが、翻訳家やアメリカ文学の愛好家からの評価は高く、わりと作品も翻訳されていて、絶版にならずにかろうじて出回っています。特徴は、圧倒的な想像力で表現される幻想的な世界観。時間や空間の制限を取り払い、縦横無尽に駆け回る物語は圧巻。読み進めハマっていくうちに、どこか違った世界へ続く時空の穴に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥ります。ただしこの手の作品を読み慣れていない人には結構読みにくいかもしれません。理屈とか手順とか抜きにして話がどんどん膨らんでいき、感情や愛情が強烈に描かれていきますので、慣れない人や肌に合わない人は多分消化不良になるんじゃないかと思います。万人におすすめできる作家ではないですが、特に幻想的な小説が好きな人、文学色の強い作品が好きな人はお気に入りの特別な作家になるかもしれません。
トマス・ピンチョン
  • 現代アメリカ文学を代表する重鎮にして、謎の多い「覆面作家」、トマス・ピンチョン。公の舞台に姿を現すことは一切なく、写真も学生時代と軍隊時代に撮影したたった2枚が発見されているだけ。「全米図書賞」などの権威ある文学賞を受賞しても授賞式には姿を表さず、そもそも受賞辞退をすることも。その素性がほとんど知られていない謎の多い作家です。作品はとにかく長く、難解なことで有名。しばしば「ポストモダン文学」と呼ばれる非形式的、放漫的で、論理性や物語の構築といったストーリー展開の整然さを無視した作風をもち、複雑でつかみ所のない、迷路のような作品が多いのが特徴です。アメリカ文学が好きな人でも、日頃から外国文学をよく読む人でも、最後まで読めずに断念してしまう人が多いです。かなり文学オタク向けな作家だと思います。ただ一方で、熱狂的な信者も多く、近年は定期的にノーベル文学賞候補にも挙げられています。軽々しく手に取ると挫折してしまいそうですが、まとまった休日があれば、思い切って挑戦してみるのも良いと思います。

2016年6月2日木曜日

ラディゲ

生涯[編集]

フランスはパリの郊外、サン=モール=デ=フォッセで生まれる。幼少の頃は学業優秀でならすものの、思春期にさしかかる頃から文学にしか興味を示さなくなり、学業そっちのけで、風刺漫画家として活動していた父の蔵書を読み耽るようになる。そのときフランス文学の古典の魅力にとりつかれる。14歳の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分になる。その後、自宅で父親からギリシア語ラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染める。15歳の時に父親の知り合いの編集者のつてをたどって知り合った詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、同じ詩人のジャン・コクトーに紹介される。コクトーはラディゲの才覚を見抜き、自分の友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわる。数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移しはじめ、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかる。
途中、詩集『燃ゆる頬』、『休暇中の宿題』の出版や、いくつかの評論の執筆を行ないつつ、『肉体の悪魔』の執筆を続行。数度のコクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行される。このとき出版社は新人作家対象としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びるが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼んでベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになる。
『肉体の悪魔』で得た印税を元手に、コクトーとともにヨーロッパ各地を転々としながらも、ラディゲはすでに取りかかっていた次の長編『ドルジェル伯の舞踏会』の執筆を続行。同時に自分がこれまで書いた評論などの原稿や詩作を整理しはじめる。1923年11月末頃に突如、体調を崩し腸チフスと診断されピッシニ街の病院に入院。病床で『ドルジェル伯の舞踏会』の校正をしながら治療に専念するが、快方には向かわずそのまま12 月12日に20歳の短い生涯を閉じる。遺作の『ドルジェル伯の舞踏会』は、死後出版された。臨終を看取ったコクトーはラディゲの早すぎる死に深い衝撃を受け、その後およそ10年にわたって阿片に溺れ続けた。

フランス文学界での位置づけ[編集]

ラディゲのフランス文学史全体における位置づけは、作家としての活動期間が短く、作品の本数も少ないせいもあってか決して高くはない。しかし処女小説『肉体の悪魔』は、題材のセンセーショナルさに淫することなく、年上の既婚者との不倫に溺れる自らの心の推移を冷徹無比の観察眼でとらえ、虚飾を排した簡潔な表現で書きつづったことで、今日もなお批評に耐えうる完成度に達している。
ドルジェル伯の舞踏会』に至っては、ラディゲ自らが参考にしたとしているラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を、高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げていることから、「夭折天才」の名にふさわしい文学的実力の持ち主であったと評されている[1][2]

日本におけるラディゲ[編集]