2016年11月28日月曜日

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2016年11月11日金曜日

死せる魂(登場人物)

マニーロフ    世話好きではあるが、感傷におぼれ、実行力のない、砂糖の効きすぎた人物

カローボチカ   愚鈍だが、欲にかけては抜け目のない女地主

ノズドリョーフ  嘘つきで博打狂いの性格破綻者 チチコフが買ったのは死んだ農奴だと
          触れ回るが信用されない

サバケーヴィッチ  成り上がりの地主 粗野で下劣な大食漢

プリューシキン  千人の農奴をもつ大地主でありながら、身にぼろをまとう
           すさまじいばかりの守銭奴

ペトルーシカ  チチコフの従者 口数は少ないほう

セリファン  背の低い馭者

裁判所長  気立てのよい人物で、チチコフにも好意的

郵便局長  非常な読書家で、皮肉屋

警察長官  賄賂ももらうが、町中から親しまれている人物

県知事  生活のすべてを舞踏会に傾けているような人物

チェンチェートニコフ  理想を抱いて役所勤めや農業経営にあたったが、やがて幻滅し
              無為の日を送るようになった地主

ベトリーシチェフ将軍  チェンチェートニコフの隣村の地主 堂々たる風采の元将軍

コシカリョーフ大佐  知識を偏重する地主 むやみに委員会を設けては文書の
              たらい回しに明け暮れる

コスタンジェグロ  英知と行動力をそなえた理想的な農業経営者

フロブーエフ  借金がかさんで所領を売りに出している地主

ムラーゾフ  徴税請負人 莫大な財産を持ち 徳の高い人物

2016年10月14日金曜日

トルストイと白樺派

レフ・トルストイ(1828年 - 1910年)は、帝政ロシアの小説家、思想家である。
フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと
並んで19世紀ロシア文学を代表する文豪。英語では名はレオとされる。
代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、
政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。

(1905年:日露戦争後の第一革命 1917年:二月革命から十月革命へ)

生涯 トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれる。
祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、
1830年、2歳のとき母親を亡くす。1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都である
モスクワへと転居するが、同年6月に父親をなくし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、
父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザンに住む叔母に引き取られ、
1841年にはカザンへと転居した。1844年にカザン大学東洋学科に入学するが、舞踏会などの社交や
遊興にふけって成績はふるわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、
1847年にカザン大学を中退した。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。
1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、
農民に理解されず失敗。モスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ったのち、
1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入される(コーカサス戦争)。この時の体験は後年
『コサック(英語版)』や『ハジ・ムラート(英語版)』や『コーカサスの虜(ロシア語版)』などに
反映された。1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代(英語版)』がネクラーソフの
編集する雑誌『現代人』に発表され、新進作家として注目を集める。
1853年のクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリで激戦の中に身をおく。
セヴァストポリの戦いでの体験は『セヴァストポリ物語(英語版)』(1855)などに結実し、
のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。
退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に
関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行なった。ヴァイマルを訪れた際の逸話が
トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(独: Goethe und Tolstoi, 1923年)に記されている。
パリ滞在中には公開処刑を目撃し、物質文明に失望している。帰国後、アレクサンドル2世に
よる1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みるが、十分には成功しなかった。
1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたる。
強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針であった。 翌1860年から1861年に、
教育問題解決のため再び西欧に旅立った。この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、
新作『レ・ミゼラブル』を激賞している。他にもディケンズやツルゲーネフを訪問した。
1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、
地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職する。同年、活動を危険視した官憲の妨害により
学校は閉鎖のやむなきに至ったが、教育への情熱は生涯変わらなかった。同年34歳で
18歳の女性ソフィア(英語版)と結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を
定めることになる。夫婦の間には9男3女が生まれた。幸福な結婚生活の中で世界文学史上に
残る傑作が書かれた。トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を
現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義
(仏: Realisme)の手法を用いている。
『コサック』(1863年)では、ロシア貴族とコサックの娘の恋愛を描きながら、
コサックの生活を写実主義の手法によって描写した。1863年7月18日にヴァルーエフ
指令が公布されてウクライナ語での言論活動が禁じられた為、コサックが母語で文筆活動を
行なえない皮肉な状況になった。
『戦争と平和』(1864-69)はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々(1812年の祖国戦争)
を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物が写実主義の手法によって
みな鮮やかに描き出されている。『戦争と平和』の主人公ピエール・ベズーホフにも
トルストイ自身の思索が反映している。『戦争と平和』で、トルストイはロシアの貴族社会のパノラマを描き出した。
『アンナ・カレーニナ』(1873-77)は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、
『戦争と平和』に比べより調和に富み、構成も緊密である。『アンナ・カレーニナ』では、
社会慣習の罠に陥った女性と哲学を好む富裕な地主の話を並行して描くが、地主の描写には
農奴とともに農場で働き、その生活の改善を図ったトルストイ自体の体験が反映している。
小説の主人公アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリア(ロシア語版)で、
トルストイは1868年に出会っている。パンジーの花飾りや真珠のネックレスを描いた彼女を
描写する一節は、トルストイ博物館に収蔵される肖像画と全く同じである。トルストイは
また社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。
援助資金を調達するために作品を書いたこともある。一方『アンナ・カレーニナ』の執筆とほぼ並行して、
初等教育の教科書作成にも力を注いでいる。

世界的名声を得たトルストイだったが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに
苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、
山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後
作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった(トルストイ運動)。
その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を
否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていた
ロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。
また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。
そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた。
上記の「回心」後は、『イワンのばか』(1885)のような大衆にも分かりやすい民話風の作品が書かれた。
戯曲『闇の力(英語版)』(1886)は、専制政治強化を主導していたコンスタンチン・ポベドノスツェフの
圧力によって1902年まで公的な上演が禁止されていた。しかし、実際には地下活動によって数回、
非公式の形で上演された。そういった圧力が強まる中で『人生論』(1887)など、
道徳に関する論文が多くなる。小説も教訓的な傾向の作品が書かれるようになる。
『イワン・イリイチの死(英語版)』(1886年)、『クロイツェル・ソナタ』(1889)などがそれにあたる。
『イワン・イリイチの死』では、死を前にした自身の恐怖を描き出している。
1891年から1892年にかけてのロシア飢饉(英語版)では、救済運動を展開し、世界各地から
支援が寄せられたが、政府側はトルストイを危険人物視し、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった。
『神の国は汝らのうちにあり(英語版)』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。
『芸術とは何か(英語版)』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のための
ものだとして、その意義を否定した。
その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない[16]。 一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られる。またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒であった。瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。
作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった[17]。 1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判した。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[18]。 その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[19]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅(ru))で下車した。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがある。

トルストイは存命中から人気作家であっただけでなく、ガルシン、チェーホフ、コロレンコ、ブーニン、
クプリーンに影響を与えた。トルストイの影響は政治にも及んだ。ロシアでの無政府主義の展開は
トルストイの影響を大きく受けている。ピョートル・クロポトキン公爵は、ブリタニカ百科事典の
「無政府主義」の項で、トルストイに触れ「トルストイは自分では無政府主義者だと名乗ら
なかったが……その立場は無政府主義的であった」と述べている。
ソ連時代も共産党から公認され、その地位は揺るがなかった。 ウラジーミル・レーニンが愛読者で
あったことは知られている。トルストイは、革命後ソ連で活動したミハイル・ショーロホフ、
アレクセイ・トルストイ、ボリス・パステルナークをはじめ多くの作家に影響を与えている。
またアメリカで活躍したウラジミール・ナボコフはトルストイの特異な技法に注目しながら、
ロシア作家中で最高の評価を与えている。
宗教思想について本格的に論じられるようになるのはペレストロイカ以降である。
また、トルストイの教科書をもとにした教科書がペレストロイカ後に出版されている。

西欧においては1880年代半ばには大作家としての評価が定着した。またロマン・ロラン、
トーマス・マンらがトルストイの評伝を書き、マルタン・デュ・ガールが1937年ノーベル賞
受賞時の演説でトルストイへの謝意を述べるなど、その影響は世界各国に及んでいる。
一方トルストイの非暴力主義にはロマン・ロランやガンディーらが共鳴し、
ガンディーはインドの独立運動でそれを実践した。
 
( 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年慶応3年) - 1916年大正5年)
 永井荷風 1879年明治12年) - 1959年昭和34年)
 谷崎潤一郎 1886年明治19年) - 1965年昭和40年)
 芥川龍之介 1892年明治25年) - 1927年昭和2年) 晩年には志賀直哉の
     「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある
     自己の文学を完全否定する 
 川端康成 1899年明治32年) - 1972年昭和47年)
 松方コレクションは、実業家松方幸次郎大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)
 にかけて築いた美術品コレクションのこと。近代絵画と浮世絵が中心。
 1917年 ロシア革命成功 1918年 ドイツ革命挫折 
 1919年 ワイマール共和国とコミンテルンの成立
 1923年 ヒトラーのミュンヘン一揆 1923年 関東大震災 1929年 世界第恐慌
 1931年 満州事変 1932年 515 1936年 226 )

白樺派の概略 大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、
理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって
1910年代の文学の中心となった。1910年刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。
そのきっかけは1907年10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼の旅館東屋で武者小路実篤と
志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している。
学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、雑誌刊行の準備を
整えたという。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも
『白樺』以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。
彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する
武士像や明治の精神への反発からである。
さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号・俳号の類を用いなかった。
特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、
その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。
写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、
郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、
雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。
武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。多くは学習院出身の上
流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。

2016年10月6日木曜日

ロシア革命と関連するドイツ革命

前史 19世紀に移ると、アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加。
1812年のナポレオン1世のロシア遠征に際しては、これを撃退し、1814年のウィーン会議後には
神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。
次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。国内の不満をそらすために、
対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、
「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。しかし、聖地管理権を
めぐってオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、
「南下政策」は頓挫する(東方問題)。
クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に
「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。解放された農奴たちは農村で小作農となり、
あるいは都市に流入して労働者となった。ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。
その一方、清朝との間ではアイグン条約を1858年に、北京条約を1860年に締結、
極東での南下政策を推進した。
さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。
しかし、この運動は広い支持を農民から得られなかったことから、
ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が
暗殺されることになった。

(ドスト流刑:1849~1854 死の家の記録と虐げられた人々:1860 
戦争と平和:1864~69 罪と罰:1866 白痴:1868 悪霊:1871
アンナ・カレーニナ:1877 カラマーゾフ:1880 皇帝暗殺:1881
イワンイリイチの死:1885 クロイツエルソナタ:1889
復活:1889~99 チェーホフ死亡:1904)

定義 1905年に発生した血の日曜日事件を発端とするロシアの革命である。第1次革命とも言い、
第2次革命(第二革命)は二月革命を指す。
特定の指導者がいたわけではなく、原因や目的は単純なものではなかったが、
反政府運動と暴動がロシア帝国全土に飛び火した。全国ゼネスト、戦艦ポチョムキンの
反乱などで最高潮に達したが、憲法制定や武力鎮圧で次第に沈静化し、
ストルイピン首相の1907年6月19日のクーデターで終息した。

背景[編集]
騒乱がロシア帝国では日常的なものになっていたとはいえ、1905年以前の数十年間は、
深刻な騒動は、ほとんどなかった。議論を呼んだ1861年のアレクサンドル2世の農奴解放以降
政治に対する不満は増大していった。農奴解放は貴族への多年にわたる「賠償金」と
わずかばかりの法律上は認められた人民の自由により危険なくらいに不完全なものであった。
人民の権利は、依然として階級ごとに厳格に規定された義務と規則に縛られていた。
農奴解放はロシアが封建的専制政治から市場が支配する資本主義にゆっくりと移行する
1860年代に唯一始まった政治・法律・社会・経済の変動である。一連の改革は、
経済・社会・文化を構造的に解放したとはいえ、政治体制に変更は見られなかった。
改革を試みることは、君主制と官僚制度に厳しく阻害された。
例えば40以下の自治体で行うと合意した開発さえ制限され、
実施されたのは50年も経ってからであった。期待が膨らんでも実行過程で制約を受け、
結局反乱に発展するような不満を生み出して行った。

反乱に加わる人々に「土地と自由」の要求は革命でこそ実現するという考えが生まれた。
革命運動は専らインテリゲンツィアの活動から生まれたと言っても良い。
この運動はナロードニキと呼ばれた。この運動は個別に行われたものではなかったが、
各々の主張により様々な集団に分かれていった。初期の革命思想は、貴族のゲルツェンの
農奴解放支援とゲルツェンのヨーロッパ社会主義とスラブ的農民共同体に起源がある。
ゲルツェンはロシア社会は依然として産業化が未発達であると言い、革命が起きてもプ
ロレタリアートがいないために革命による変動の基本はナロード(訳注:人民)と
オブスチナ(原注:農村共同体)であるとする思想に共鳴した。
他の思想家は、ロシアの農村は非常に保守的で、他の誰でもない家族や村、共同体を
大切にしていると反論した。こうした思想家は、農民は自分達の土地のことしか考えず、
民主主義や西洋の自由主義には深く反対していると考えた。
後にロシアの思想は、後の1917年の革命で使われる概念である革命の
指導的階級という考えに引き寄せられていった。

1881年3月1日(旧暦)、アレクサンドル2世は土地と自由の分派である人民の意志の放った
爆裂弾で暗殺された。極端に変革を望まないコンスタンチン・ポベドノスツェフから深く
薫陶を受けた大保守主義者のアレクサンドル3世が即位した。
アレクサンドル3世の下でロシアの政治警察部門(オフラーナまたは、オフラーンカ)は
事実上国中の革命運動と初期の民主化運動の両方の抑圧を行った。オフランカは革命集団を
投獄したり追放することで弾圧した。革命組織に属する者は、しばしば抑圧を逃れて移住した。
西欧に移住したロシア人思想家は、初めてマルクス主義に触れることになった!

最初のロシア人マルクス主義団体は、1884年に結成されたが、1898年までは小規模な集団であった。
1880年代と90年代の社会の停滞が齎した明確な違いの中で、当時のロシアの低い技術水準と
関連する工業化において大きな近代化が進行した。この成長は続き、シベリア鉄道建設と
「ヴィッテ体制」による改革で1890年代に急成長した。セルゲイ・ヴィッテは1892年に
大蔵大臣になり、絶え間ない財政赤字に直面した。経済を押し上げ外国の投資を呼び込むことで
歳入増を図った。1897年、ルーブリを金本位制とした。経済成長はモスクワ、サンクトペテルブルク、
ウクライナ、バクーなどの数地区に集中した。およそ3分の1は外国からの投資で、
外国の投資は活気にあふれていた。
1905年までに革命集団は1880年代の圧制の打撃から回復していた。マルクス主義の
ロシア社会民主労働党は1898年に結成され、1903年、メンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂した。
ヴラディーミル・ウリャノフ(レーニン)は『何をなすべきか』を1902年に出版した。
社会革命党は1900年にハリコフで創設され、「戦闘組織」は1905年以降も有名な政治家を
多く暗殺した。標的になった人に共に内務大臣で1902年に暗殺されたドミトリー・シピャーギンと
後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる。こうした暗殺で警察に更に強権を与えることになった。
日露戦争は当初は広く支持されたものの、既に戦争は失敗であり戦争の目的も不明確なものだと
いう考えが人民に広まっていた。農奴解放による深刻な不公平は、再検証されることになり、
農民は国中のあらゆる農園を焼き討ちするようになっていた。1890年代の好景気は、停滞期に入り、
労働者は最悪の状況に不満を口にするようになった。1903年、西部のロシア軍の3分の1が、
「鎮圧活動」に従事していた。
ニコライ2世は1894年に皇帝(ツァーリ)に即位した。先帝アレクサンドル3世同様政治改革を
一切認めることはなかった。

革命か?
1905年1月22日(旧暦1月9日)、「血の日曜日」として知られるこの日、サンクトペテルブルクで
デモ行進が行われた。当時サンクトペテルブルクを離れていたツァーリの知らないところで
冬宮に軍隊が配置された。死者の数についてはさまざまな推計があるが、一般には1000人前後が
殺されたり負傷したと見られている。
この事件はロシアの多くの団体が抵抗運動を始めるきっかけになった。それぞれにそれぞれの
目的があり、同様の階級の間でさえ、全体の方向性はなかった。主な活動家は、農民(経済問題)、
労働者(経済問題と反工業化)、インテリゲンツィアと自由主義者(民権)、
軍隊(差別と経済問題)、小規模な全国組織(政治問題と文化活動における自由)であった。

農村の騒乱
農民の経済状態はすさまじい状態だったが、統一した指導もなくそれぞれの運動体は
それぞれの目標に向かっていた。騒乱は年間を通じて拡大し、初夏と秋に隆盛になり、
11月に頂点に達した。小作人は小作料の低減を求め、作男は賃上げを求め、土地管理人は
所有地拡大を求めた。土地の強奪(時に暴力や焼き打ちが行われた上で行われた)や略奪、
森林での違法な狩猟と伐採などが行われた。サマーラでは農民が自分たちの共和国を作り、
政府軍に鎮圧されるまで違法な伐採と分配を行った。行動に現れる憎悪の程度は、
農民の状態に直接関連があり、グロドノとカウナス、ミンスク近郊の幾分状況に恵まれた
地域ではほとんど破壊活動がなかった一方で、リヴォニヤとクールラントの無産大衆は
襲撃と焼き打ちを行った。全体として3228件の騒乱を鎮めるのに軍隊の投入が必要で、
地主は2900万ルーブリの損害を被った。
ロシアの急進的な政党は農村の騒乱に急速に浸透して行った。5月の全露農民連合結成に繋がる、
農民の活動を組織し調整する協議会を結成する動きがあった。この協議会は地域代表からなり、
社会革命党と緊密な関係があったが、現実的で首尾一貫した要求を打ち出せなかった。
1905年の事件後、農村の騒乱事件は1906年に再発し、1908年に終息した。政府が譲歩したことは、
土地の再分配を政府が支持したと見られ、そのために土地管理人と「農民でない」地主を追い出す
襲撃が起きた。全国的な土地再分配はすぐにでも行われると考えられ、農民は再分配は既定のことの
ように捉えた。農民は酷く抑圧された。

ストライキ
抵抗運動に参加する労働者の手段は、ストライキであった。血の日曜日事件が起きるとすぐに
サンクトペテルブルクで大規模なストライキが起き、40万人を越える労働者が、1月末までに参加した。
このストはすぐにポーランドやフィンランド、バルト海地域の工業地帯に波及した。
リーガではデモ参加者80人が1月13日(旧暦)に殺され、数日後ワルシャワでは100人を越える
スト参加者が路上で射殺された。ストライキは2月までにカフカスに、4月までにウラル地方以遠で
起きるようになった。3月、学生がストライキに共鳴したために高等教育機関は全て強制的に
年内は閉鎖されることになった。10月8日(旧暦)の鉄道労働者のストライキは、あっという間に
サンクトペテルブルクとモスクワのゼネラル・ストライキに発展した。
短期間だが200を超える工場でストライキを組織する労働者協議会サンクトペテルブルクソビエト
(大半が参加者がメンシェヴィキ)が結成されることになった。10月13日(旧暦)までに200万人を
超える労働者がストライキに参加したが、鉄道労働者はほとんどいなかった。

暗殺
1901年から1911年にかけて革命運動により1万7000人(1905年から1907年は9000人)が殺された。
 警察の統計によると、1905年2月から1906年5月にかけて殺された人数はこうなっている。
総督、知事、市長 8人
副知事とグベルニヤ(訳注:当時の行政区分のひとつ)議員 5人
警察本部長官 21人
国家憲兵将校 8人
将軍 4人
将校 7人
様々な階級の警察官 846人
秘密警察(オフランカ)警察官 18人
神父 12人
公務員 85人
地主 51人
工場所有者 54人
銀行家と資産のある商人 29人
社会民主労働党、社会革命党、アナーキストの武装集団と「一匹狼のテロリスト」による暗殺が行われた。
社会革命党の「戦闘組織」により1905年以降有名な政治家が多く暗殺され、この中に内務大臣が二人
(ドミトリー・シピャーギン(1902年)と後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる

結果
政府の反応は、非常に早かった。ツァーリは大きな変革は拒否する考えで、1月18日(旧暦)、
スヴャトポルク=ミルスキーを解任し、後任にブルイギンを任命した。叔父でモスクワ総督の
セルゲイ大公が2月4日(旧暦)に暗殺されると、多少の譲歩に応じた。2月18日(旧暦)、
ツァーリはブルイギン宣言を発した。この宣言は「ツァーリを輔弼する」議会創設、信教の自由、
ポーランド人がポーランド語を使用すること、農民の弁済額の減額を認めるものであった。
上記の譲歩をしても秩序の回復はできず、2月6日(旧暦)、ツァーリの諮問に応じるドゥーマの
創設に応じた。ドゥーマの権限が余りに小さいことと選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、
騒乱は更に激化し、10月にはゼネストにまで発展した。

10月14日(旧暦)、十月宣言をヴィッテとアレクシス・オボレンスキイが執筆し、ツァーリに提出した。
宣言は9月のゼムストヴォ(訳注:ロシアの地方議会)の要求(基本的な民権の承認、政党結成の許可、
普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。ツァーリは3日かけて議論したが、
虐殺を避けたいツァーリの意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、
遂に1905年10月30日(旧暦10月17日)に宣言に署名した。ツァーリは署名したことを悔しがり、
「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と言った。
宣言が発布されると、あらゆる主要都市で宣言を支持する自発的なデモが起こった。
サンクトペテルブルクなどのストライキは、正式に終了するか急速に消滅した。
恩赦も行われた。譲歩は騒乱に対する新たな残忍な反動を伴っていた。公然と反ユダヤの攻
撃を行う保守層の逆襲もあり、オデッサでは一日で約500人が殺された。ツァーリ自身は
革命運動に参加した90%はユダヤ人だと言った。
暴動はモスクワで勃発したものを最後に12月に終息した。12月5日から7日まで(旧暦)ボリシェヴィキは
労働者に対する脅迫と暴力でゼネストを強行した。政府は7日に派兵し、市街戦が始まった。
1週間後、セメノフスキイ連隊が展開し、デモを粉砕するために大砲を使用し、
労働者が占拠する区域を砲撃した。12月18日(旧暦)、約1000人が死亡し、都市が廃墟になって、
ボリシェヴィキは投降した。その後の報復で数知れぬ人々が殴打され殺された。

波及
結成された政党にリベラルな知識人政党立憲民主党(カデット)、農民を指導者とする
労働団(トルドヴィキ)、自由主義には消極的な10月17日同盟(オクテャブリストゥイ)、
改革に好意的な地主連合があった。
25歳以上の市民を4階層に分けて選挙権を認める選挙法が1905年12月に公布された。
ドゥーマの最初の選挙は、1906年3月に実施され、社会主義者とエス・エル、ボリシェヴィキが棄権した。
第一ドゥーマの議席は、カデットが170、トルドヴィキが90、無所属の農民代表が100、
様々な傾向を持つ民族主義者が63、オクテャブリストゥイが16であった。
1906年4月、政府は新しい秩序に制限を加える基本法を公布した。ツァーリは専制君主として
行政、外交、教会、軍事を完全に支配するものと確認された。ドゥーマはツァーリが
任命する評議会より下位の会議とされた。ドゥーマは法案を承認しなければならず、
評議会とツァーリが法であり、「例外として」政府はドゥーマで審議させることができた。
同じ4月にロシア財政の建て直しのために約9億ルーブリの借り入れ交渉を終えると、
セルゲイ・ヴィッテは辞任した。ツァーリはヴィッテに「不信感」を抱いたようである。
後年「ロシア帝国末期の最も傑出した政治家」として知られるヴィッテの後任は、
皇帝の腰巾着イワン・ゴレムイキンである。
更に自由化の要求が高まり活動家に向けた綱領により第一ドゥーマは1906年7月にツァーリの命令で解散した。
カデットが望み政府が恐れた割には民衆からの広汎な反応はなかった。しかし、
ピョートル・ストルイピン暗殺未遂でテロリストに対する公開裁判が始まり、
8ヶ月以上に亘って1000人を超える人々が絞首刑となった(絞首台はストルイピンのネクタイとあだ名された)。
本質においてロシアは変わらず、権力はツァーリが握り続け、富と土地は、貴族が所有し続けた。
しかし、ドゥーマの創設と弾圧は、革命団体を崩壊させることに成功した。
指導者は収監されるか亡命し、組織は混乱し、迷走した(ドゥーマに参加するかしないかしかなかった)。
上記により起きた分裂は、第一次世界大戦に触発されるまで個人で活動する過激派のまま続いた。

フィンランド
フィンランド大公国では1905年のゼネラル・ストライキにより4階級の議会が廃止されることになり、
近代的なフィンランド議会が創設された。1899年に始まったロシア化政策が一時停止されることになった。
フィンランドでは前年1904年6月17日に、フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが暗殺されるなど
民族主義が高まっており帝政への反発が広がっていた。

前史[ソースを編集]
ソビエト連邦
ソビエト連邦の国章
最高指導者
レーニン ・ スターリン
マレンコフ ・ フルシチョフ
ブレジネフ ・ アンドロポフ
チェルネンコ ・ ゴルバチョフ
標章
ソビエト連邦の国旗
ソビエト連邦の国章
ソビエト連邦の国歌
鎌と槌
政治
ボリシェヴィキ ・ メンシェヴィキ
ソビエト連邦共産党
ソビエト連邦の憲法・ 最高会議
チェーカー ・ 国家政治保安部
ソ連国家保安委員会
軍事
赤軍 ・ ソビエト連邦軍
前史

年間平均ストライキ発生数
1862?9   6
1870?84   20
1885?94   33
1895?1905 176

ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に
対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、
社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を
維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。1881年には
皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。社会不安と急速な
工業化の進展によってストライキの発生数は急速に増加していた。
日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮を
ツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。
この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市で
ソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の
影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、
他艦により鎮圧された。同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。
また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、
戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリや
オデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。
なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。
こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、
ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。
1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、
強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や
第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。スト発生数はさらに
増加を続け、1912年の2032件から、1914年の前半だけで3000件を超えるまでになった。
一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、
1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらの
メンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党
(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃
(1915年 - 1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。
第一次世界大戦はロシア不利のまま長期間に及ぶようになり、ロシア経済の混乱と低迷も
一層ひどくなっていった。食糧不足が蔓延し、ストが多発するようになっていった。
また、ドゥーマも皇帝の干渉に対して不満を表明するようになり、1915年にはカデットや十月党、
進歩党など国会の4分の3の議員によって進歩ブロックが結成され、対立姿勢を強めていった。
1916年12月30日には、宮廷に取り入って大きな権勢をふるっていた怪僧グリゴリー・ラスプーチンが
ユスポフ公とドミトリー大公によって暗殺された。

(ゴーリキー:1868年 - 1936年 ショーロホフ:1905年- 1984年 パステルナーク:1890年 - 1960年
ブーニン:1870年 - 1953年 ナボコフ:1899年 - 1977年 ソルジェニーツィン:1918年- 2008年)

二月革命
革命の勃発と二重権力の成立 1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせて
ヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした
「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、
数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。
しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者や兵士は
メンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。
メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた。一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長
である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会
をつくって新政府の設立へと動いた。
3月1日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第一号」を出した。
「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」
などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。
ドゥーマ臨時委員会は3月2日、カデットのリヴォフを首相とする臨時政府を設立した。
この臨時政府には、社会革命党からアレクサンドル・ケレンスキーが法相として入閣したものの、
そのほかはカデットや十月党などからなる自由主義者中心の内閣であった。
臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に
皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日の3月3日にこれを拒否し、帝位につくものが
誰もいなくなったロマノフ朝は崩壊した。
ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命は
ブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、
臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。

四月危機
臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。
この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と
題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって
対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」
「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、
臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。
ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」
(3.27声明)を発表した。「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその
民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎
とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている
義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」
ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた。
ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した。しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書」を付し、
その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、
と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、
強まっただけである」と解説した。
この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに
労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は
辞任を余儀なくされた。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。
5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、
ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった。

レーニンの「四月テーゼ」
ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、
ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は
方針を明確に定めることができなかった。3月12日に中央委員のカーメネフとスターリンが流刑地から
ペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと
変化した。機関紙『プラウダ』には「臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して
革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される」「軍隊と軍隊とが対峙しているときに、
武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、
銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう」などといった論説が掲載された。
これに対し、4月3日に(敵方のドイツの支援で)亡命地から帰国したレーニンは、
「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と
題したテーゼ(四月テーゼ(ロシア語版、英語版))を発表して政策転換を訴えた。その内容は、
臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、「祖国防衛」を拒否すること、
全権力のソヴィエトへの移行を宣伝することなどであった。
「ミリュコフ覚書」が引き起こした四月危機の影響もあり、この四月テーゼは4月24日から29日にかけて
開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった。

攻勢の失敗と七月事件 第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、
前線において大攻勢を仕掛けた。将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。
しかし6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。
攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。7月3日、
ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう
求めるための武装デモを行うことを決定した。他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに
武装デモが始まった(七月事件(英語版))。しかしソヴィエトの中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否した。
7月4日になるとデモの規模はさらに拡大したが、政府とソヴィエト中央を支持する部隊が
前線からペトログラードに到着し、力関係が逆転した。武装デモは失敗に終わった。
デモを扇動したのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。
しかし抑えきれないまま始まってしまったデモを支持する以外なくなった。デモが失敗に終わると
一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。
トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。
デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。
レーニンは、この7月事件により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、
と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。
このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起に
よる権力奪取を意味した。ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会で
レーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。

コルニーロフの反乱 第一次連立内閣は7月8日にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、
同月24日にケレンスキーを首相とする第二次連立内閣が成立した。この連立内閣は社会革命党と
メンシェヴィキから多くの閣僚が選出され、カデットからの閣僚は4名にすぎないなど、
社会主義者が主導権を握る構成となった。しかしケレンスキー内閣の政策はリヴォフ内閣と
ほとんど変わったところのないものだった。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、7月事件後の
弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府の支持基盤はきわめて弱いものとなった。
7月18日に軍の最高総司令官に任命されたラーヴル・コルニーロフは、二月革命以後に獲得された
兵士の権利を制限し、「有害分子」を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。
保守派の支持を得ようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求をすべて受け入れることはできず、
両者は対立することになった。8月24日、コルニーロフはクルイモフ将軍に対し、ペトログラードへ
進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。
翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。カデットの閣僚はコルニーロフに連帯して辞任し、
軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して無条件支持を
要請した。8月28日、ソヴィエトはこれに応じて対反革命人民闘争委員会をつくった。
弾圧を受けてきたボリシェヴィキも委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。
ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、
将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱
(ロシア語版、英語版)は失敗に終わった。クルイモフは自殺し、コルニーロフは9月1日に逮捕された。

十月革命 カデットの閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキーは9月1日に
5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。ソヴィエトは
9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との
連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、
という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの
連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府は
結局はカデットも含むものになった。ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへの
支持が急速に高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトで
ボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、
レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は
10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。
一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。
これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、
武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、
権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、
あからさまに武装蜂起の方針を認めた。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、
委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなく
ソヴィエトの指示に従うことを決めた。10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊に
よってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、
軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、
10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、
ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した。
このとき臨時政府側には冬宮が残されるばかりとなっていたが、情勢の不利を悟ったケレンスキーは
25日早朝に冬宮から脱出しており、残された臨時政府の閣僚たちはコサックや士官学校生、女性部隊と
いった残存兵力とともに立てこもりながら無意味な議論を続けるばかりだった。
やがてボリシェヴィキ側の攻勢が始まり、冬宮は26日未明に占領された。
蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。この大会においては
社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席していたため、残った社会革命党中央派・左派に
対してボリシェヴィキは多数派を占めていた。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。
さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、
地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府として
レーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。
冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第三軍団長クラスノフの協力をとりつけ、
その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。ペトログラード市内でも
社会革命党やメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、
10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、
ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。
モスクワでは10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の
側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が
優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。
11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。
ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、
左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、
12月9日に両者の連立政府が成立した。

憲法制定議会の解散 二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を
約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に
対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を
実施することを決めた。しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで
410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった。
レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会は
ブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態である
ソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の
承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、
十月革命を否定する姿勢を示した。
翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが
提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。
1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。

ブレスト=リトフスク条約 全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した「平和についての布告」は
フランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツや
オーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。
交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。
この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、
革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリンのグループ、
ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、
そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。
最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が
1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開し、
ロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。
3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約に調印した。
このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、
ポーランド、ウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。
のちに、同年11月にドイツ革命が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、
ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。
左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した。

内戦[ソースを編集]
詳細は「ロシア内戦」を参照
1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こし[14]、これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵した(シベリア出兵)。イギリス軍は白海沿岸の都市を占領した。サマーラでは社会革命党の憲法制定議会議員が独自の政府、憲法制定議会議員委員会(Комуч、コムーチ)をつくり、さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。こうした反革命軍は、総称して白軍と呼ばれたが、緑軍のようにボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も存在した。白軍の有力な将帥としては、アントーン・デニーキン、アレクサンドル・コルチャーク、グリゴリー・セミョーノフなどが知られる。ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約締結後に軍事人民委員となっていたトロツキーの下で赤軍を創設して戦った。
この内戦を戦い抜くため、ボリシェヴィキは戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策を取った。これはあらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除くすべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などからなっていた。この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わり、ロシア経済は壊滅的な打撃を受けた。農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こした。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになった。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んでいた[15]。
この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めた。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化された。革命直後に創設されていた秘密警察のチェーカーは裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。1918年8月30日には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こし、これをきっかけに政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。一方、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺された。
一時期白軍はロシアやウクライナのかなりの部分を支配下においたものの、内紛などによって急速に勢力を失っていき、次々とソヴィエト政府側によって鎮圧されていった。デニーキンの敗残兵をまとめ上げ、白軍で最後まで残ってクリミア半島に立てこもっていたピョートル・ヴラーンゲリ将軍率いるロシア軍も、1920年11月のペレコープ=チョーンガル作戦で破れて制圧され[16]、内戦はこれをもって収束し、ソヴィエト政府側の勝利に終わった。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922年に撤退した。また、この内戦の過程において、白軍に参加した、あるいは赤軍やソヴィエトに反対した人々が国外に大量に亡命し、こうした亡命者は白系ロシア人と呼ばれるようになった。
内戦が終わっても戦時共産主義体制はしばらく継続しており、これに反発して起きる反乱もやむことがなかった。1921年には軍港都市クロンシュタットで海軍兵士によるクロンシュタットの反乱が起き、ボリシェヴィキによって鎮圧されたものの、同年3月21日に経済統制をやや緩めたネップ(新経済政策)が採択され、軌道修正が図られるようになった。このネップ体制下で、農業・工業生産は回復にむかった。
最初の憲法[ソースを編集]
1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第五回全ロシア・ソヴィエト大会は最初のソヴィエト憲法を採択した。憲法の基本的任務は「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」とされた(第9条)。また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議にも立法権を認めた。
この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。1922年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。
定義と影響[ソースを編集]
ロシア革命は、少なくとも最初に勃発した二月革命の時点においては自然発生的な革命であり、どの政治勢力も革命の展開をリードしているわけではなく、むしろ急展開を急ぎ追いかける形となっていた。しかし成立した臨時政府が情勢をコントロールできない中、レーニン指導下のボリシェヴィキが情勢を先導して行くようになり、十月革命は逆にボリシェヴィキが徹頭徹尾主導権を握って自力で起こしたものであり、革命というよりはむしろクーデターというべき性格のものだった。
ともあれ十月革命によって成立したボリシェヴィキ主導政権は世界初の社会主義国家であり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望んでおり、1919年3月2日にボリシェヴィキ主導のもとで結成されたコミンテルンもヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとしていた。しかしこうした試みは成功せず、一国社会主義論の登場とともにコミンテルンの役割は変容していった。


ドイツ革命(ドイツかくめい、独: Novemberrevolution, 英: German Revolution of 1918?19)は、
第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、
その帰結としてカイザーが廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。
これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。

休戦交渉と皇帝退位問題 ドイツ参謀本部が戦争の短期終結を目指して立案したシュリーフェン・プランは、
フランス軍との戦線全域に渡って泥沼の塹壕戦に陥ったことで挫折した。国内で独裁的地位を固めた軍部は、
この膠着状態を破り、継戦能力を維持するために、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制、
エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の提唱した、いわゆる「総力戦」体制の確立に突き進んだ。
これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、
戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや
暴動が頻発した。1917年3月12日に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、
1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。また一時ドイツと連合国の仲介役に
当たっていたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」に代表される
公正な講和のアピールは[1]、政治家にも和平への道を選択させることとなった。
1918年3月からの西部戦線におけるドイツ軍の攻勢は失敗し、8月には連合国軍の反撃により逆に
戦線を突破され始めた。ドイツの敗北が決定的となったことで、ベルギーのスパにおかれていた
大本営は9月29日、ウィルソン大統領を仲介役とする講和交渉の開始を決定した。
この決定を受けて首相ゲオルク・フォン・ヘルトリングは辞任し、議会多数派のドイツ社会民主党
(SPD)の支持を受けた自由主義者のマックス・フォン・バーデン大公子内閣が成立した。
マックス大公子はアメリカと連絡を取り、1918年10月にアメリカを介した連合国との
講和交渉が開始された。アメリカ側は前述の十四カ条の平和原則に基づく講和の条件として、
ドイツ帝国の専制色を解消することを求めた。これに反発したルーデンドルフが交渉継続に
反対するという事態が起きたが、マックス大公子は皇帝ヴィルヘルム2世に迫ってルーデンドルフを解任、
後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。その後憲法改正による議院内閣制や普通選挙などの
導入が行われたが、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事から
もたらされた。ウィルソン自身は皇帝の退位を求めたことはなく、また想定もしていなかったが、
10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになった。
この情勢の動きを見てマックス大公子の政府も皇帝退位の方針を固めつつあったが、
ヴィルヘルム2世とその周辺はあくまで退位に反対した。10月29日に皇帝はベルリンを離れて
大本営のあるスパに向かい、後を追ってきたマックス大公子の退位要請も拒絶した。

レーテ蜂起  1918年10月29日、ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵達
約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った。
この出撃は自殺的な無謀な作戦であったとされるが、実態には論評の余地があるとされる。
海軍司令部は作戦中止をもたらしたサボタージュの兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。
11月1日、キールに駐屯していた水兵たちが仲間の釈放を求めたが、司令部は拒絶した。
11月3日には水兵・兵士、さらに労働者によるデモが行われた。これを鎮圧しようと
官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ
(評議会、ソビエトとも訳される)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した
(キールの反乱(英語版))。レーテは政府が派遣した社会民主党員グスタフ・ノスケを
総督として認め、反乱は一応鎮静化した。しかしこの後キールから出た水兵や労働者によって
事件はたちまち広まり、5日にはリューベック、ブルンスビュッテルコーク(英語版)、
6日にはハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、7日にはハノーファー、
オルデンブルク、ケルン、8日には西部ドイツすべての都市がその地に蜂起したレーテの支配下となった。
11月7日から始まったバイエルン革命(後述 ミュンヘン革命とも)では
バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制廃止の先例となった。
このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、
11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、
ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、
ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、
多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。

人民委員評議会政府成立 11月9日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民の
デモで埋め尽くされた。これに対してマックス大公子は、革命の急進化を防ごうと独断で
皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。
しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。
この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、
エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を
乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した(ドイツ共和国宣言(ドイツ語版))。
その日の内にヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、後日退位を表明した。
11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府
「人民委員評議会(ドイツ語版)」が樹立された。一方、ベルリンの労兵レーテは
人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテ
(ドイツ語版)が半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会(ドイツ語版)を選出し、
ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた。
同夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、
グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは
革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの
目的達成のための実働部隊を軍部が提供することを約束した協定が結ばれた
(エーベルト・グレーナー協定(ドイツ語版))。また軍は旧来の将校組織を温存する保障を獲得し、
人民委員評議会政府を支援することとなった。また旧来の官僚組織を温存し、
社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした。また一方で首都の治安を守るために
クックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団(ドイツ語版)」が結成された。
しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。

模索期 11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との
休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した。後にパウル・フォン・ヒンデンブルクが言明し、
ナチ党などが流布したいわゆる匕首伝説、すなわち第一次世界大戦で、依然として戦争遂行の余力が
あったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者とそれに支持された政府が裏切り、
「勝手に」降伏した、もしくは「背後の一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと
導いたとするデマゴギーが生まれ、共和国を破滅に追い込むこととなる。
11月15日には、先の政治協定と似た形で、労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。
(シュティンネス・レギーン協定(ドイツ語版))労働組合や労働運動の急進化を防ぐために、
団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。
12月16日、全国労兵レーテ大会で、多数派を占める社会民主党員の賛成により国民議会の召集と
そのための選挙の実施が決定された。
12月23日、ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した
部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した
(人民海兵団事件(ドイツ語版))。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。

革命の鎮圧 12月30日、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党
(KPD)が結成された。1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官
エミール・アイヒホルン(de)が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模な
デモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は
無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、
以降「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続いた。
1月9日、ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール(ドイツ義勇軍)が
ベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開した(スパルタクスの週)。
1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトと
ローザ・ルクセンブルクが彼らにより殺害された。以降、各地に広がった労働者の武装蜂起は、
ミュンヘンに成立していたレーテ共和国を筆頭に次々とフライコール(義勇軍)により鎮圧されると
ともに労兵レーテも解体・消滅していった。散発的な蜂起やゼネストは続いたが、
国防軍も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧された。
1月19日、国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。2月6日、ヴァイマルの地で
国民議会が召集された。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、
いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した。また、大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、
社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。
後には、当時世界で最も民主的な憲法とされたヴァイマル憲法が制定された。
ドイツ革命により帝政が打倒され、共和国が樹立されたが、ドイツを世界大戦に導き、
軍国主義を積極的に支えてきた帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。
彼らの後援による極右勢力、右翼軍人らの共和国転覆の陰謀、クーデターの試みは右から
共和国と政府を揺さぶり、一方、極左党派は左から社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を
激しく攻撃した。これら左右からの攻撃がヴァイマル共和国の政治的不安定さの一因となった。

バイエルン革命 11月7日、バイエルン王国の首都ミュンヘンで独立社会民主党の
クルト・アイスナーが演説をし、アイスナーを首相とする共和政府が樹立された。
革命が成立した要因には、戦局の悪化による厭戦感情と、オーストリアの降伏により
バイエルンが戦場となることへの危機感があった。また、ルートヴィヒ3世が権力に
執着せず速やかに退位したことで、政権の移行も速やかに行われている。一連の革命に
おいて反王室の流れが生まれなかったことから、王室が追放されることはなかった。
アイスナーはレーテを国制の基礎に置こうとしたが、中産階級や農民をレーテに取り込もうと
したため共産主義者から批判された。また、社会民主党などからの議会の設置要求を拒否できず、
1月12日に選挙を実施した。その結果、独立社会民主党は180議席中3議席に留まった。
アイスナーは首相在任のまま2月21日に暗殺された。
共産主義者はこの混乱に乗じて共産主義政権の樹立を目論むが、4月6日に無政府主義者の
グスタフ・ランダウアー、独立社会民主党員の劇作家のエルンスト・トラーらが革命を起こした。
トラー政権には自由貨幣の提唱者であるシルビオ・ゲゼルが金融担当大臣として入閣していた。
文学青年の集まりであった新政権は体制を維持できず、一週間後にはスパルタクス団創設者の一人
であるオイゲン・レヴィーネ(Eugen Levine)率いる共産主義者が革命を起こし、政権を奪取された
(バイエルン・レーテ共和国)。モスクワのボリシェビキ政権はバイエルンの共産主義政権を
革命の拠点になりうるとして高く評価した(この間16日に当時のヒトラーがレーテ代表
代理に選ばれており、フライコールに捕えられてから連隊の告発委員会に参加し、
カール・マイヤーによって反ボリシェヴィキ講習のあとドイツ労働者党におくりこまれる)。
5月1日にミュンヘンがドイツ政府軍の攻撃を受けたことで、バイエルン革命は終焉した
(レヴィーネは捕らえられ、7月5日に処刑されている)。
革命以後はバイエルンで右翼勢力が支持されるようになり、ミュンヘンでのナチス結成につながっていく。

2016年9月28日水曜日

ドストエフスキーの3人の女性



ドストエフスキーの三つの恋

2015年7月28日 RBTH
作家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821~1881)の恋は、彼の作品のそれに酷似しており、複雑怪奇で緊張と心理的葛藤に満ちている。彼が愛する女性に自分を捧げつくしたのも作品と同じだが、この不安な作家の魂に平和と調和をもたらしたのはたった一人だった。
初恋 ドストエフスキーの初恋は、ペトラシェフスキー事件への連座で懲役刑に処せられた後のことだ。ちなみに、19世紀の作家でこのような罰を受けたのは彼一人のみ。当時の彼は、4年間の自由剥奪と厳しい労役で苛まれて健康を損ねており、これほど、女性の温かみと心遣いに餓えていたことはなかった。
 ちょうどこんな時、幸か不幸か、彼の前に現れたのが、マリア・ドミートリエヴナ・イサーエワ(1824~1864)だった訳だが、二人の関係は相当な紆余曲折を辿った。マリアは当時結婚しており、夫は病弱で、息子もいた。が、ドストエフスキーはすっかり惚れ込み、じっと待ち、ついに待ちおおせたのである。マリアの夫が亡くなると、作家は、日々の糧にも事欠くありさまだったのに公然と求婚した。
マリア・イサーエワ=写真提供:ロシア通信
 ところが、この遅すぎた初恋は、作家に次々に難題を突きつけた。恋人は彼を試し始めたのだ。マリアは、どんな金持ちの年寄りと結婚したらいいかと“相談”する手紙を寄こし、彼を苦しめた。彼は、有名な賭博狂ではあったが、恋愛ゲームはやったことがなかったのである。
 それでも二人は結婚したが、作家はマリアにとって、夫というよりも“兄”のままで、ついに精神的にも肉体的にも調和することはなかった。
 20世紀最大のロシアの文学者の一人、マルク・スローニムは、自著『ドストエフスキーの三つの恋』の中でこう書いている。「ドストエフスキーが彼女を愛していたのは、彼女が呼び起こした感情のためであった。そして、彼が彼女に与えたすべてのため、彼女と関係あるすべてのため、要するに、彼女が彼にもたらした苦しみのためだった」
 マリアは長く結核を患った末、1864年に亡くなった。夫婦を結び付けていたのは、互いの苦しみであり、清澄な感情ではなかった。
 『虐げられた人びと』のヒロイン、ナターシャのモデルは彼女だ。ナターシャは、絶え難いほどに相手を苦しめつつも、無言のうちに愛しているのである…。
 若い女子学生アポリナリア・スースロワ(1839~1918)とドストエフスキーが出会ったのは、作家の朗読会の夕べにおいてで、彼は42歳、彼女は22歳だった。彼女は、マリアに無かったものを彼に与えた。文学趣味と情熱的な性愛を作家と共有した彼女は、大人しくも優しくもないどころか、彼を怯えさせると同時に誘惑するアマゾネスだった。
 ところが作家は、彼女の欲するものを与えることができなかった。彼はまだマリアと結婚していたので、二人の関係は隠さねばならなかったからだ。その結果、彼女はしばしば彼を“裏切り”始め、最大2年間の別離の期間を挟むこととなった。その後の彼女はもはや、何度でも彼のもとに帰る気のある、若い未経験な娘ではなくなっていた。彼女は彼に、あなたとは結婚しない、と冷然と告げた。
アポリナリア・スースロワ=wikipedia.org
 おそらく、アポリナリアほどドストエフスキーの心に痛みを与えた女性はあるまいが、他ならぬ彼女が彼の魂に永遠の刻印を押したことは否定し難い。「彼は、彼女の名前を聞くと、びくりと震えた。若いアンナ夫人にか隠れて、文通を続けていた。そして、自分の作品のなかで何度でも彼女を描くのだった。最期の日にいたるまで、彼女から受けた愛撫と打撃の思い出を心に秘めていた。彼は永遠に――心と肉体の深みにおいて――この魅惑的で残酷で不実で、そして悲劇的な恋人に忠実であった」。スローニムはこう書いている。
 アポリナリアがドストエフスキーの人生のあらゆる面に痕跡を残したのと同じく、事実上すべての作品に、この永遠の恋人の面影を見出すことができる。『罪と罰』の自己犠牲的なドゥーニャには、どこかアポリナリア的なところがあるし、情熱的で魅力的なナスターシャ・フィリッポウナ(『白痴』)にも、誇り高く神経質なリーザ(『悪霊』)にも、その面影の幾分かが分かち与えられているが、アポリナリアが完全にモデルになったヒロインはといえば、『賭博者』のポリーナだ。
  アンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナ(1846~1918)はもともとドストエフスキーが雇った速記者で、『賭博者』(1866)の執筆を助けた。作家は未来の妻より25歳年長であった。この共同作業は、彼らを夢中にさせ、期日が過ぎた時には、二人はもはや別々の生活など考えられなかった。こうして1867年、アンナは作家の妻となる。
 アンナ・スニートキナ=写真提供:ロシア通信
 それしても、『賭博者』という小説は作家にとって何だったのだろう?彼がヒロインとして選んだのは、一見してそれと分かるアポリナリアで、これを書いたのは、マリア夫人の死からまだ間もない頃。そして、それを口述筆記させた相手が未来の妻アンナ。
 初めのうち作家は、アンナとの結婚生活に、どちらかというと“実際上の必要”を感じていた。彼には生活の安定と堅固な足場が必須だったからだ。で最初、この結婚は、作家の以前の女達との関係を思わせるところもあったが、アンナは、他のどの女もなし得なかった一歩を踏み出す。家族の保護を買って出て、雰囲気を帰るために外国に行こうと言い出した。
 結婚1年後、娘が生まれ、作家は溺愛したが、間もなく、この幸福な家庭を大いなる不幸が見舞った。幼いソーニャが死んでしまったのだ。しかしその後、3人の子供が生まれた。

2016年9月7日水曜日

イーリアス

『イーリアス』(希: Iλι??, 羅: Ilias, 英: Iliad)は、ホメーロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩で、
最古期の古代ギリシア詩作品である。
目次
1 序説
2 構成
2.1 ムーサへの祈り
2.2 ポイボス・アポローンの銀弓
3 物語のあらすじ
3.1 アキレウスとアガメムノーンの確執
3.2 総攻撃の開始
3.3 パリスとメネラーオスの一騎打ち
3.4 パトロクロスの出陣
3.5 パトロクロスの死
3.6 アキレウスの出陣
3.7 ヘクトールとアキレウスの一騎打ち
3.8 ヘクトールの遺体引き渡しと葬儀
4 日本語訳書(原典全訳)
5 後世の作品における『イーリアス』の影響
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク

序説
ギリシア神話を題材とし、トロイア戦争十年目のある日に生じたアキレウスの怒りから、
イーリオスの英雄ヘクトールの葬儀までを描写する。ギリシアの叙事詩として最古のものながら、
最高のものとして考えられている。叙事詩環(叙事詩圏)を構成する八つの叙事詩のなかの一つである。
元々は口承によって伝えられてきたものである。『オデュッセイア』第八歌には、パイエーケス人たちが
オデュッセウスを歓迎するために開いた宴に、そのような楽人デーモドコスが登場する。
オデュッセウスはデーモドコスの歌うトロイア戦争の物語に涙を禁じえず、また、自身でトロイの
木馬のくだりをリクエストし、再び涙を流した
『イーリアス』の作者とされるホメーロス自身も、そのような楽人(あるいは吟遊詩人)だった。
ホメーロスによって『イーリアス』が作られたというのは、紀元前8世紀半ば頃のことと考えられている。
『イーリアス』はその後、紀元前6世紀後半のアテナイにおいて文字化され、紀元前2世紀にアレキサンドリアに
おいて、ほぼ今日の形にまとめられたとされる

ムーサへの祈り
ホメーロスの叙事詩は朗誦の開始において、「ムーサ(詩神)への祈り」の句が入っている。
それは、話を始める契機としての重要な宣言と共に、自然な形で詩のなかに織り込まれている。
『イーリアス』では、最初の行は次のようになっている。
μ?νιν ?ειδε θε? Πηλη??δεω ?χιλ?ο?
(ラテン文字転写:Menin aeide, thea, Pele-iadeo Achileos)
言葉の順番に意味を書くと、次のようになる。
怒りを 歌ってください 女神(ムーサ)よ ペーレウスの息子であるアキレウスの(怒りを)……
ホメーロスの劇的構成というのは、この最初の一行より始まっており、
なぜアキレウスが怒っているのかという聴衆の興味を引きつけた後、
できごとの次第を息も継がせぬ緊迫感で展開する。

ポイボス・アポローンの銀弓
先の戦いで、アカイア勢(ギリシア軍)はトロイエ側にささやかな勝利を収め、
戦利品を手に入れた。しかし、その戦利品のなかには、光明神ポイボス・アポローンの
神官であるクリューセースの娘クリューセーイスもまた含まれていた。戦闘の混乱のなかで
アカイア勢に捕らわれた娘を返して貰おうと、神官クリューセースはアカイア軍の陣地を
貢物を携え訪れるが、傲ったアカイア勢はクリューセースを侮辱する。
目的を果たせず、海辺を一人戻るクリューセースは、自らが仕える神アポローンに祈り、
「アカイア軍に報いを」と求める。ムーサの言葉は劇的に転回し、クリューセースがこう祈るや
、オリュンポスの高みより、ポイボス・アポローンが銀弓を手に空を飛び、
アカイア軍の陣地の上空に至るや、数知れぬ矢を射かけ、アカイア軍陣地は、神の送る疫病に
悲鳴をあげて倒れる兵士たちの修羅場と変ずる。
しかし、雄壮なアポローンの活躍を活写した後、なお、なぜアキレウスは怒っているのか、
その理由は不明である。こうして、詩は更に続いて行く。

物語のあらすじ
翻って、このようにアキレウスが怒りを抱いたというのは、一体、戦いのどのような時点であったのか。
それは、パリス(イーリオス王プリアモスの王子)に奪われたヘレネーを取り戻すべく、
ヘレネーの夫メネラーオスをはじめとするアカイア族(ギリシア勢)がイーリオスに攻め寄せ
てから十年の歳月が流れたときのことであった。
ギリシア勢はメネラーオスの兄でミュケーナイ王のアガメムノーンの指揮の下で戦い、
イーリオス勢はプリアモスの長子ヘクトールの指揮の下に戦っていた。アキレウスは、
友人パトロクロスと共に、ミュルミドーン人たちを率いて戦いに参加していた。
このような背景のなかで、神官クリューセースの神アポローンへの祈りの事件が起こったのである。

アキレウスとアガメムノーンの確執
アポローンの矢による疫病の発生から十日目、アキレウスの発議により集会が持たれた。
カルカースによって、アポローンの怒りを鎮める必要があるため、献策がなされた。それは、身の代なしに
娘クリューセーイスを神官クリュセースに返すというものだった。クリューセーイスはアカイア勢の
総帥アガメムノーンの戦利品となっていた。アガメムノーンはやむを得ず娘を解放することに同意する。
アガメムノーンは娘を失う代償を諸将に求める。それに対し、アキレウスは戦利品を分配しなおすべきで
ないことを主張し、「わたしには戦う義務はない。しかしあなたがた兄弟のために戦闘に参加している」
と述べる。アガメムノーンは立腹し、軽率にも「われらのために戦う戦士は山ほどいる。
そなたが義務で戦うというのなら、われらは汝なしでも戦うことができる」と応酬した。
そして、クリューセーイスの代償として、アキレウスの戦利品であるブリーセーイスを自分のものにする。
アキレウスはアガメムノーンの仕打ちに怒り、母テティスに祈り、ゼウスがイーリオス勢の味方をする
ことでギリシア勢を追い詰めさせることを願う。テティスが請け合い、ゼウスに頼み込むと、
ゼウスもこの願いを受け入れた。ゼウスの妻ヘーラーは、ゼウスがテティスの願い通りイーリオス勢の
味方をするつもりではないかと気付き、ゼウスを難詰したが、息子ヘーパイストスのとりなしで、
とりあえず怒りを納めた。
アキレウスはその日以降、集会にも出ず、戦闘にも参加しなくなった。こうしてアキレウスの怒りから
始まり、『イーリアス』は劇的な展開において物語を繰り広げて行く。

総攻撃の開始
ゼウスは、テティスの願いをどのように叶えるのがよいかを考え、ギリシア勢の総大将アガメムノーンを
夢でまどわすことにした。アガメムノーンは、ネストールが「オリュムポスの神々は皆ギリシア勢の味方を
することになったから、全軍で攻め寄せればイーリオスを攻め落とせる」と説くところを夢に見た。
目が覚めたアガメムノーンは、すぐにでもイーリオスを陥落させることができると思い込み、総攻撃を決意する。
しかしゼウスは、ギリシア勢を劣勢に追い込み、アガメムノーンに、アキレウスを怒らせたことを後悔させることが
目的だったのである。
ギリシア勢が美々しく隊伍を整えると、イーリオス勢も攻撃準備を完了した。
両軍は、まさに激突しようとしていた。

パリスとメネラーオスの一騎打ち
このときパリスは軍勢の先頭に立ち、「誰でもいいから俺と勝負しろ」と言った。メネラーオスは、
仇敵の姿を見るや、喜び勇んで飛び出してきた。しかしパリスはメネラーオスを見ると怖気づき、
逃げ出してしまった。これを見たヘクトールは、イーリオスの災厄の種であるパリスの不甲斐なさをなじり、
「貴様のような格好ばかりの奴は、さっさとメネラーオスに殺されてしまえばよかったのだ」と責めた。
するとパリスは殊勝にも「私とメネラーオスで一騎打ちをし、勝ったほうがヘレネーと奪った財宝を
取ることにしたい」と申し出た。ヘクトールは喜び、ギリシア勢にこの話を申し込んだ。
アガメムノーンもこの話を呑み、両軍の戦士が武装をはずして見守る中、両者が一騎打ちを行うことになった。
対峙するパリスとメネラーオス。双方が槍を投げるが、両者共にこれを避けた。
次にメネラーオスが剣を抜いて切りかかると、メネラーオスの剣はパリスの兜にあたって砕けた。
パリスがくらくらしているところを、メネラーオスが兜を掴んで自軍に引いていこうとした。
するとアプロディーテーが兜の紐を切ってパリスの窮状を救った。メネラーオスの手には兜だけが残った。
そしてなおも追いすがるメネラーオスから守るために、濃い霧でパリスを隠し、イーリオスに退却させた。
メネラーオスは姿を隠したパリスを探すが、見つけることができない。
そこでアガメムノーンはメネラーオスが勝ったとして、ヘレネーと財宝の引渡しをイーリオス勢に申し入れた。
ヘクトールは目の前の出来事に青ざめたものの、誓い通りに戦いの結果を尊重しようとした。
しかし、ゼウスはトロイアの運命に基づき、アテーナーに命じてトロイアの武将パンダロスに甘言をささやいた。
それは誓いを破り、ギリシア(メネラーオス)への仇討ちをせよ、というささやきであった。
彼が矢を放った結果、メネラーオスは傷を負い、それを契機に再び戦いが始まった。

パトロクロスの出陣
アキレウスなしでも優勢に立っていたギリシア勢も、名だたる英雄たちが傷ついたことをきっかけに
して総崩れとなり、陣地の中にまで攻め込まれる。これを見たパトロクロスは、出陣してギリシア勢を
助けてくれるようアキレウスに頼んだが、アキレウスは首を縦に振らない。そこでパトロクロスは
アキレウスの鎧を借り、ミュルミドーン人たちを率いて出陣する。

パトロクロスの死
アキレウスの鎧を着たパトロクロスの活躍により、ギリシア勢はイーリオス勢を押し返す。
しかし、パトロクロスはイーリオスの王プリアモスの息子で、事実上の総大将であるヘクトールに討たれ、
アキレウスの鎧も奪われてしまう。

アキレウスの出陣
パトロクロスの死をアキレウスは深く嘆き、ヘクトールへの復讐のために出陣することを決心する。
アキレウスの母テティスはアキレウスのために新しい鎧を用意し、アキレウスに授ける。
出陣したアキレウスは、イーリオスの名だたる勇士たちを葬り去る。形勢不利と見てイーリオス勢が
城内に逃げ去る中、門前に一人、ヘクトールが待ち構える。

ヘクトールとアキレウスの一騎打ち
ギリシア勢とイーリオス勢が見守る中、アキレウスとヘクトールの一騎打ちが始まる。
アキレウスはヘクトールを追いまわし、ヘクトールは逃げ回ってイーリオスの周りを三度回る。
しかし、ついにヘクトールはアキレウスに討たれる。アキレウスはヘクトールの鎧を剥ぎ、
戦車の後ろにつなげて引きずりまわす。復讐を遂げて満足したアキレウスは、さまざまな賞品を
賭けてパトロクロスの霊をなぐさめるための競技会を開く。

ヘクトールの遺体引き渡しと葬儀
競技会が終わった後も、アキレウスはヘクトールの遺体を引きずりまわすことをやめない。
ヘクトールの父プリアモスはこれを悲しみ、深夜アキレウスのもとを訪れ、息子の遺体を
返してくれるように頼む。アキレウスはプリアモスをいたわり、ヘクトールの遺体を返す。
ヘクトールの葬儀の記述をもって、『イーリアス』は終わる。

2016年9月1日木曜日

オデュッセウス

オデュッセウス



表 話 編 歴
オデュッセウス(古代ギリシャ語: ?δυσσε??,Λαερτι?δη?、ラテン文字転写: Odysseus)は、
ギリシア神話の英雄で、イタケーの王(バシレウス)であり、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の
主人公でもある。ラテン語でUlixes(ウリクセス)あるいはUlysseus (ウリュッセウス)ともいい、
これが英語のUlysses(ユリシーズ)の原型になっている。彼はトロイ攻めに参加した他の英雄たちが
腕自慢の豪傑たちであるのに対して頭を使って勝負するタイプの知将とされ、「足の速いオデュッセウス」
「策略巧みなオデュッセウス」と呼ばれる。ホメーロス以来、女神アテーナーの寵厚い英雄として書かれる。
イタケー王ラーエルテースとアンティクレイアの子で、妻はペーネロペー、息子はテーレマコスである。シーシュポスが父とする説もある。
トロイア戦争ではパラメーデースの頓智でアカイア勢に加勢させられ、アキレウスの死後、その武具を大アイアースと争って勝利した。また木馬の策を立案し、アカイア勢を勝利に導いた。
オデュッセウスの貴種流離譚である長い帰還の旅に因み、長い苦難の旅路を「オデュッセイ、オデュッセイア」という修辞で表すこともある。啓蒙や理性の奸智の代名詞のようにもいわれ、テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」でも取り上げられる。彼が難破して、裸体でスケリア島に漂着したところを助けた、純粋無垢の代表としての清らかな王女ナウシカアに対置されることもある。姦計としての理性対愛という対立構造で近世市民社会の論理を語るのに、オデュッセウスとナウシカアを対置させた哲学者もある。
目次  [非表示]
1 トロイア戦争以前
1.1 トロイの木馬
2 トロイア戦争以後
2.1 ロートパゴス族
2.2 キュクロープスの島
2.3 アイオロスの島
2.4 ライストリュゴネス人
2.5 魔女キルケーの住む島
2.6 テイレシアスの亡霊
2.7 セイレーンの歌
2.8 スキュラの海峡
2.9 ヘリオスの怒り
2.10 カリュプソーの島
2.11 ポセイドーンの怒り
2.12 ナウシカアとの出会い
2.13 帰国
3 系図
4 原典
5 登場する作品

トロイア戦争以前[編集]
ヘレネーがパリスに連れ去られたことで、メネラオスは、かつての求婚者たちに誓いに基づき、彼女を
奪還するのに協力するよう求めた。オデュッセウスは、戦への参加を厭い、狂気を装った。
神託が予言するには、もし戦に出たならば、故郷に帰るのはずっと後になるということだったからである。
オデュッセウスは、ロバと雄牛に鋤を引かせ(歩幅が異なるので鋤の効率が悪くなる)、地に塩を蒔いた。
パラメーデースは、アガメムノンの要請により、オデュッセウスの狂気を明かそうとして、
鋤の正面にオデュッセウスの幼い息子テーレマコスを置くと、オデュッセウスの鋤は息子を避けたので、
狂気の扮装は暴露された。それゆえ、オデュッセウスは、故郷から引き離される原因となった
パラメーデースを戦争中も憎んだ。
オデュッセウスと他のアガメムノンの使節は、スキュロスに赴き、アキレウスを仲間に加えようと望んだ。
というのも、彼を欠いては、トロイアは陥落しないと予言されていたからである。
しかし、アキレウスの母テティスは、アキレウスを女装させ、アカイア勢の目を逃れようとしていた。
なぜなら、神託によると、アキレウスは、平穏無事に長生きするか、もしくは永遠の名声を得る
代わりに若くして死ぬかのいずれかであると予言されていたからである。
 しかし、オデュッセウスは、次のような方法を使って、前に立つ女性たちの誰がアキレウスなのかを
見出すことに成功した。他の女性は装飾品にしか目を向けなかったものの、アキレウスだけ武器に
興味を示したのである。さらに、オデュッセウスは、戦のホルンを鳴らし、アキレウスが武器を
握りしめて戦士としての本来の性格を見せるのを鼓舞した。アキレウスの扮装もまた暴露されたので、
アガメムノンらのアカイア勢に参加することになった。

トロイの木馬
トロイの木馬を立案し、これによって10年間続いたトロイア戦争に終止符を打った。
トロイの木馬には、ネオプトレモス、メネラーオス、オデュッセウス、ディオメーデース、
ピロクテーテース、小アイアースなどの猛将たちが乗り込んだ。木馬の準備が完了すると、
アカイア軍は、陣営を焼き払って撤退を装い、敵を欺くためにシノーンだけを残して、
近くのテネドス島へと待機した。シノーンはトロイア人に捕まり、拷問にかけられるが
「ギリシア人は逃げ去った。木馬はアテーナーの怒りを鎮めるために作ったものだ。そして、
なぜこれほど巨大なのかといえば、この木馬がイーリオス城内に入ると、この戦争にギリシア人が
負けると予言者カルカースに予言されたためである」と説明してトロイア人を欺き通し、
木馬を戦利品として城内に運び込むように誘導した。この計画は、木馬を怪しんだラーオコーンと
カッサンドラーによって見破られそうになるが、アカイア勢に味方するポセイドーンが海蛇を
送り込んでラーオコーンとその息子たちを殺したため、神罰を恐れて木馬を破壊しようとする者はいなくなった。
城門は、木馬を通すには狭かったので、一部を破壊して通し、アテーナーの神殿に奉納した。
その後、トロイア人は、市を挙げて宴会を開き、全市民が酔いどれ眠りこけた。
守衛さえも手薄になっていた。市民たちが寝静まった夜、木馬からオデュッセウスたちが出てきて、
計画通り松明でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れた。
その後、ギリシア勢は、イーリオス市内で暴れ回った。酔って眠りこけていたトロイア人たちは、
反撃することができず、アイネイアースなどの例外を除いて討たれてしまった。
トロイアの王プリアモスもネオプトレモスに殺され、ここにトロイアは滅亡した。

トロイア戦争以後
トロイア戦争に勝利したオデュッセウスは故国イタケーを目指して航海を開始したが、
トロイア戦争よりも長く辛い旅路が彼を待ち受けていた。本来彼は北に航路を取るべきだったが、
激しい嵐に見舞われて遥か南のリビアの方へと流されてしまった。これが苦難の始まりであり、
『オデュッセイア』で語られるところである。

ロートパゴス族
リュビアーの西部に住んでいたロートパゴス族は、ロートスの木というナツメに似た木の果実を
食べて生活していた。漂着した土地を探索していたオデュッセウスの部下たちはロートパゴス族と遭遇し
、彼らからロートスの果実(一説には花)をもらって食した。すると、ロートスがあまりに美味だったので、
それを食べた部下はみなオデュッセウスの命令も望郷の念も忘れてしまい、この土地に住みたいと
思うようになった。ロートスの果実には食べた者を夢の世界に誘い、眠ること以外何もしたくなくなる
という効力があった。このためオデュッセウスは嫌がる部下たちを無理やり船まで引きずって行き、
他の部下がロートスを食べないうちに出航した。

キュクロープスの島
オデュッセウス一行が1つ目の巨人キュクロープスたちの住む島に来た時、彼らはキュクロープス
たちによって洞窟に閉じ込められた。部下たちが2人ずつ食べられていくうち、オデュッセウスは
持っていたワインをキュクロープスの1人ポリュペーモスに飲ませて機嫌を取った。これに気を
よくしたポリュペーモスは、オデュッセウスの名前を尋ね、オデュッセウスが「ウーティス」
(「誰でもない」の意)と名乗ると、ポリュペーモスは「おまえを最後に食べてやろう」と言った。
ポリュペーモスが酔い潰れて眠り込んだところ、オデュッセウスは部下たちと協力してポリュペーモスの
眼を潰した。ポリュペーモスは大きな悲鳴を上げ、それを聞いた仲間のキュクロープスたちが
集まってきたが、誰にやられたと聞かれてポリュペーモスが「ウーティス(誰でもない)」と
答えるばかりであったため、キュクロープスたちは皆帰ってしまった。
オデュッセウスたちは羊の腹の下に隠れて洞窟を脱出し、船に戻って島から離れた。
この時、興奮したオデュッセウスが本当の名を明かしてキュクロープスを嘲笑したため、
ポリュペーモスはオデュッセウスに罰を与えるよう父ポセイドーンに祈り、
以後ポセイドーンはオデュッセウスの帰還を何度も妨害することになった。
ポリュペーモスがオデュッセウスによって眼を潰されることは、エウリュモスの子テーレモスに
よって予言されていたという。

アイオロスの島
ポセイドーンによって嵐を送り込まれ、オデュッセウスは風の神アイオロスの島である
アイオリア島に漂着した。アイオロスは彼を歓待し、無事に帰還できるように西風ゼピュロスを
詰めた革袋を与えた。航海の邪魔になる荒ぶる逆風たちは別の革袋に封じ込めてくれた。
西風のおかげでオデュッセウスは順調に航海することができたが、部下が逆風を封じ込めた革袋
を空けてしまい、再びアイオリア島に戻ってしまった。今度はアイオロスは
「神々の怒りを受けている」とし、オデュッセウスを冷酷に追い返してしまった。

ライストリュゴネス人
風の力を失ったので、オデュッセウス一行は自ら漕いで進まねばならなかった。
部下たちは疲れ切り、休ませようと近くの島に寄港することにした。そこは入り江がとても狭く、
入ることも出ることも容易ではなかった。部下たちの船は入り江の内側に繋いだが、
オデュッセウスの船は入り江の外側に繋いだ。この島は夜が極端に短く、更に巨大で
腕力もあるライストリュゴネス人が住んでいた。この巨人は難破した船や寄港した船の船員たちを
食べる恐ろしい怪物であった。ライストリュゴネス人は大岩を投げ付けて船を壊し、
部下たちを次々と丸呑みにしていった。残った船が出航して逃げようにも入り江が狭くて
なかなか抜け出せず、もたもたしている内に大岩を当てられて大破してしまった。
この島から逃げ切ることができたのは入り江の外側に繋いでいたオデュッセウスの船だけであり、
ライストリュゴネス人によって多くの部下を失った。

魔女キルケーの住む島
多くの部下を失ったオデュッセウスは、イタリア西海岸にあるアイアイエー島へと立ち寄った。
この島には魔女キルケーの館があり、強力な魔力を誇る彼女が支配していた。
キルケーは妖艶な美女であり、美しい声で男を館に招き入れては、その魔法で動物に変身させていた。
偵察に出掛けたオデュッセウスの部下も例外ではなく、オデュッセウスは部下の救出に向かわねばならなかった。
その途中でヘルメスから魔法を無効化する薬(モーリュと呼ばれ、花は乳白色、根は漆黒の薬草で、
人間には掘り当てることが難しい魔法の薬草であった)を授かり、それを飲んでキルケーの館へと臨んだ。
キルケーはキュケオンという飲み物と恐るべき薬を調合してオデュッセウスに差し出し、
彼を動物へと変貌させようとしたが、モーリュの効力により魔法は全て無効化され、
動物へと変身することはなかった。魔法の効かないオデュッセウスに驚き、好意を抱いたキルケーは、
動物に変じていた部下たちを元の姿に戻し、侍女たちに食事や酒を用意させて心から歓待した。
疲れ切っていたオデュッセウス一行もそれを受け入れ、更にオデュッセウスとキルケーは
互いに恋に落ち、約一年の間この島に留まることとなった。キルケーとの間に子どもももうけた。
 一年後、故国イタケへの思いが再び起こり、オデュッセウス一行は旅立つことを決意した。
キルケーは悲しんだが、強い思いを持つ彼らを送り出すことにした。
その際、「冥界にいるテイレシアスという預言者の亡霊と話すように」と助言した。
また、冥界へと行く方法も伝授した。

テイレシアスの亡霊
キルケーのおかげで冥界へと足を踏み入れたオデュッセウスは、冥界の王ハーデースの館の前で儀式を行い、
預言者テイレシアスを召喚した。テイレシアスは、オデュッセウス一行の旅がまだ苦難の連続であること、
しかし、それを耐え抜けば必ず故国へ帰れることを教えてくれた。オデュッセウスは更に、
母の霊に妻子の消息を訊ねたり、アキレウスやアガメムノンの霊と出会って幾多の話を聞いたりした。
その後、冥界から現世へと戻り、再びアイアイエー島へと帰還した。キルケーは戻った彼に対しセイレーンに
気を付けるように忠告し、オデュッセウスはそれを聞き入れてアイアイエー島から出発した。

セイレーンの歌
セイレーンは美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難・難破させる怪鳥であった。
セイレーンのいる海域を通る際、オデュッセウスはキルケーの忠告通りに船員には蝋で耳栓をさせ、
自分の体をマストに縛り付けた。1人だけセイレーンの歌が聞こえるオデュッセウスが暴れ出すと、
歌に惑わされていると判断して船を進め、オデュッセウスが落ち着くともう安全であると判断した
(一説には、オデュッセウスは単に歌が聞きたかっただけとも言われる)。歌を聞いて惑わせなかった
人間はいないことを自慢に思っていた彼女たちは、オデュッセウスを引き込めなかったことで
プライドが傷付き、海に身を投げた。

スキュラの海峡
セイレーンのいる海域を乗り越えたのもつかの間、次の航路の先には、渦潮を起こして船を沈没させる
カリュブディスの潜む海峡か、6本の首で6人の船員を喰らうスキュラの棲息する海峡か、
どちらかを選ばねばならなかった。キルケーの助言では、スキュラを選ぶべきである、ということであった。
理由としては、カリュブディスによって船が沈没させられたら全滅してしまうが、
スキュラなら6人が死ぬだけだからだ。キルケーの助言通りオデュッセウスはスキュラの海峡を選び、
海から現れた6本の狂犬の首によって6人の部下たちが喰われることになった。
この間、オデュッセウスは恐怖でただ見ていることしかできなかった。

ヘリオスの怒
スキュラの海峡を乗り切ったオデュッセウス一行は、イタリア南岸にあるトリナキエ島に辿り着いた。
この島では太陽神ヘリオスが家畜を飼育しており、テイレシアスからも「トリナキエ島はあまりにも
危険であるから立ち寄るべきではない。立ち寄ってしまっても、決して太陽神の家畜には手を出すな」
と忠告されていた。しかし、部下があまりにも疲れ切っていたので、仕方が無く休息の為に上陸する
ことになってしまった。この時、嵐によって一ヶ月も出航できなくなってしまい、食料が尽きてしまった。
空腹に耐えかねた部下の一人がヘリオスの家畜に手を出してしまい、立派な牛を殺して食べてしまった。
これに怒り狂ったヘリオスは、神々の王ゼウスに船を難破させるように頼んだ。ゼウスは嵐を呼び、
やっと出航できたオデュッセウスの頑強な船を雷霆によって粉砕した。船は裂け、船員たちは
海に投げ出された。オデュッセウスは大波に流されながらも、岩にしがみついた。
すると、渦潮によって獲物を喰らう怪物カリュブディスによって船の残骸が丸呑みされるのを目撃した。
カリュブディスは船の竜骨を吐き出し、オデュッセウスはそれにしがみついて、
九日間も海を漂流する運命になった。部下は全員死亡した。

カリュプソーの島
漂流して十日目に、海の女神カリュプソーの住まう島にオデュッセウスは流れ着いた。
そこは故郷からは途方も無く遠い場所だった。カリュプソーはオデュッセウスに一目惚れし、
彼に愛情を注ぎ、七年の間オデュッセウスと共に暮らした。カリュプソーと愛を育みながらも、
オデュッセウスは故郷への思いを捨てきれず、毎日涙を流す日々であった。
このことを哀れに思ったアテーナーは、オデュッセウスを帰郷させるべく行動を開始した。
カリュプソーの元を訪れ、オデュッセウスをイタケーへと帰すように促した。
オデュッセウスのことを愛していたカリュプソーは悲しむが、オリュンポスに住まう神々の意志
ならばとしぶしぶ同意し、オデュッセウスの船出を見送った。

ポセイドーンの怒り
ポセイドーンは、海の女神とアテーナーの支援を受けて順調に故郷へと船を進める
オデュッセウスを視認すると、怒りで胸を焦がした。息子であるポリュペーモスの眼を
潰された怒りが収まっていなかったポセイドーンは、三叉の矛を海に突き刺し、嵐を巻き
起こしてオデュッセウスの船を破壊した。大波に呑み込まれたオデュッセウスは死を覚悟するが、
海の女神レウコテアーがこれを哀れみ、着けたものは決して溺死することのない魔法の
スカーフを彼に授けた。オデュッセウスはそれを着け、海中に潜ってポセイドーンの怒りをやり過ごした。
ポセイドーンが去った後、アテーナーが風を吹かし、海上に漂うオデュッセウスをパイエケス人の国へと運んでいった。

オデュッセウスとナウシカア
オデュッセウスは浜辺へと打ち上げられ、そこでパイエケス人の王女であるナウシカアと出会った。
彼女はオデュッセウスをパイエケス人の王宮へと招き入れた。アテーナーの手引きもあって、
パイエケス人の王はオデュッセウスに帰郷のための船を提供することを約束すると、
競技会や酒宴を開いた。そこで吟遊詩人がトロイア戦争の栄光の物語を語り、
オデュッセウスは思わず涙を流してしまう。オデュッセウスは自らの名や身分を明かし、
今までの苦難や数々の冒険譚を語り始めるのであった。

帰国
パイエケス人のおかげでオデュッセウスは故郷へと帰国することができた。
故国イタケーでは、妻ペーネロペーに多くの男たちが言い寄り、その求婚者たちは
オデュッセウスをもはや亡き者として扱い、彼の領地をさんざんに荒していた。
オデュッセウスはすぐに正体を明かすことをせず、アテーナーの魔法でみすぼらしい老人に変身すると、
好き放題に暴れていた求婚者たちを懲らしめる方法を考えた。ペーネロペーは夫の留守の間、
なんとか貞操を守ってきたが、それももう限界だと思い、「オデュッセウスの強弓を使って
12の斧の穴を一気に射抜けた者に嫁ぐ」と皆に知らせた。老人に変身していたオデュッセウスは
これを利用して求婚者たちを罰しようと考えた。 求婚者たちは矢を射ろうとするが、
あまりにも強い弓だったため、弦を張ることすらできなかった。しかし、老人に変身した
オデュッセウスは弓に弦を華麗に張ってみせ、矢を射て12の斧の穴を一気に貫通させた。
そこで正体を現したオデュッセウスは、その弓矢で求婚者たちを皆殺しにした。
求婚者たちも武装して対抗しようとしたが、歯が立たなかった。こうして、求婚者たちは死に、
その魂はヘルメスに導かれて冥界へと下って行った。 ペーネロペーは、最初のうちはオデュッセウスの
ことを本物かどうか疑っていたが、彼がオデュッセウスしか知りえないことを発言すると、
本物だと安心して泣き崩れた。こうして、二人は再会することができたのである。





2016年8月12日金曜日

魔の山(抜粋)

山の上にあるサナトリウム(結核患者のための療養所)に入っているいとこのお見舞いに行った23歳の青年、ハンス・カストルプ。

3週間滞在の予定でしたが、熱っぽくなったり、いつしかハンス自身の体調もよくなくなり、長期滞在を余儀なくされてしまうのです。

時間の流れが下界よりもゆっくり感じられることもあり、3週間が1年になり、1年が2年になり、数年が飛ぶように過ぎていきますが、体調はよくならず、なかなか山を降りることが出来ません。

ごく平凡な青年だったハンスは、世界の色々な国々から集まった、様々な考えを持つ患者たちと触れ合う内に、物事について深く考えるようになっていって・・・というお話。

この小説で重要なのは、ハンスがどんな考えを吸収し、どんな考えを持つようになっていったかであり、ストーリーではないんですね。ストーリーらしいストーリーというのは、実はほとんどありません。

なので、世界文学の傑作として名高い作品ですが、読み通すのはなかなかに骨が折れます。実を言うと、ぼくもかつて岩波文庫の関泰祐・望月市恵訳に4回ぐらい挑んで、すべて途中で遭難したほどです。

翻訳のよしあしは置いておいて、新潮文庫の高橋義孝訳の方が活字の組み方にせよ、訳文にせよ読みやすいので、岩波文庫で挫折してしまった人は、新潮文庫で再挑戦してみるとよいかもしれませんよ。

登場人物が結構多い作品ですが、覚えておくべき登場人物は少ないです。まず、主人公であるハンス・カストルプと、言わばサナトリウムの先輩である、いとこのヨーアヒム・ツィームセン。

いつしかハンスが思いを寄せるようになるロシアの女性、クラウディア・ショーシャ夫人。物語的にはこの3人を覚えておいてください。

物語とはある意味では別に、独自の考えを持ち、ハンスに色々な考えを吹き込む登場人物がいます。中でも重要なのは2人で、イタリア人のロドヴィゴ・セテムブリーニと、その論敵レオ・ナフタです。

上巻で目立つのが、セテムブリーニ。サナトリウムの先輩にあたり、ギリシア・ローマの芸術を重んじることによって、新たな人間性を獲得するべきだという「人文主義者 homohumanus」です。

文学的知識を駆使し、時にハンスをからかうような、謎かけをするような口ぶりで様々な事柄について話をするセテムブリーニは後に、フリーメイソン(世界的な秘密結社)の会員であることが分かります。

やがて、病気が治らないことをはっきりと知り、死を意識しつつ、セテムブリーニはサナトリウムを離れるのですが、その時に同じ下宿になり、知り合いになったのが、レオ・ナフタという古典語教授。

イェズス会に入り、神学の道を進んでいたナフタは、病気で体を壊して療養を余儀なくされ、宗教の道で出世する道を閉ざされてしまいました。下巻から登場し、セテムブリーニと激しく議論を交わします。

では、実際にセテムブリーニとナフタの議論がどんな感じなのか、どういう難しさのある小説なのかがよく分かるとも思うので、少し長いですが、ハイライトとも言える場面からそれを見てみましょう。

「少し論理的にお願いいたしたい」とナフタが応じた。「プトレマイオスとスコラ派が正しいとします。すると世界は時間的、空間的に有限です。そうなると神性は超越的であり、神と世界との対立は保持され、人間も二元的存在である。すなわち魂の問題は感覚的なものと超感覚的なものとの抗争にあり、すべての社会的要素はずっと下の方の二義的なものになる。こういう個人主義だけを、私は首尾一貫せるものとして承認できるのです。ところがこんどは、あなたのルネッサンス天文学者が真理を発見したとします。すると宇宙は無限です。そうなれば超感覚的世界は存在せず、二元論は存在しない。彼岸は此岸に吸収され、神と自然の対立は根拠を失う。そしてこの場合には人間の人格も、ふたつの敵対的原理の闘争の舞台ではなくなり、調和的であり、統一的である。したがって人間の内面的葛藤は、ただ個人と全体との利害の葛藤にのみもとづくことになり、実に異教的なことに、国家の目的が道徳の法則になる。これか、あれかです」(下巻、114ページ)

もう何言ってるんだかよく分からん! という感じかも知れませんね。この後、セテムブリーニが反論し、2人の議論はますます白熱していくことになります。その議論をハンスは聞いているわけです。

セテムブリーニとナフタの、それぞれの立場や考え方の違いについて、ここで詳しくは触れられませんが、”世界”をどうとらえるかという時点で、認識のずれがあるのが分かってもらえたかと思います。

この世界がどのように出来ているか(或いは人間がどう認識するか)、それをどう考えるかによって、国家の役割とは何か、そして人はどのように生きていくべきかの考え方が違って来るわけですね。

『魔の山』はこうした哲学的議論で成り立っていて、ある程度飛ばしてハンスの恋愛だけに着目して読めないこともないのですが、それではこの小説の醍醐味が失われてしまうというジレンマがあります。

確かに内容的に難解な小説ですが、世界をいかに認識し、人間はどう生きていくべきかというのは、みなさんも興味のあるテーマだと思うので、ハンスと一緒にじっくり考えてみてはいかがでしょうか。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 ひとりの単純な青年が、夏の盛りに、故郷ハムブルクをたって、グラウビュンデン州ダヴォス・プラッツへ向った。三週間の予定で人を訪ねようというのである。(上巻、13ページ)

その青年の名前はハンス・カストルプ。工業大学でエンジニアとしての勉強に励み、就職した会社の造船所で、間もなく実習生として働くことが決まっています。

難しい試験を突破するために少し根を詰めすぎたハンスは医者もすすめもあり、息抜きをかねて、サナトリウムに入っているいとこのヨーアヒム・ツィームヒンのお見舞いに出かけたのでした。

迎えに来てくれたヨーアヒムは、サナトリウムでの生活の話をしてくれますが、まだこれから半年も療養する予定だと言ってハンスを驚かせ、あそこでは下界とは時間の流れ方が違うんだと言います。

「ここにいる連中は普通の時間なんかなんとも思っていないんだ。まさかとは思うだろうけれどね。三週間なんて彼らにすれば一日も同然なんだ。いまにきっとわかってくるよ。なにもかもきっとのみこめてくるさ」といってから、ヨーアヒムはこう付け加えた。「ここにいると概念が変ってくるんだ」
 ハンス・カストルプはじっと横からいとこを眺めていた。
(上巻、21ページ、本文では「いとこ」に傍点)

34号室に入ったハンスは見学者のような感じではあるものの、ヨーアヒムと一緒に、一日五食のサナトリウム生活を送り始めます。

やがてハンスは、イタリア人の文学者ロドヴィゴ・セテムブリーニと出会いました。30歳から40歳の中頃で、大きな襟の長すぎる上着、淡黄色の弁慶格子の太いズボンを身に着けた紳士です。

「いや、それはどうも。ではあなたはわれわれの身内ではいらっしゃらないというわけですな。ご丈夫で、ここへは単に聴講生としてこられたということですか、冥府をおとずれたオデュッセウスのように。いや実にご大胆なことだ。亡者どもが酔生夢死の暮しを送っているこの深淵へ降りてこられたとは。――」
「深淵とおっしゃるのですか、セテムブリーニさん。ご冗談を。ぼくは五千フィートあまりも上ってあなたがたのところへやってきたのですが」
「それは感じただけのことです。そうですね、それは錯覚ですね」と、イタリア人ははっきりと手を振っていった。
(上巻、122ページ)

やがてハンスは、少年時代に一方的に強い友情を感じていた友達と、どことなく似ているロシア人女性、クラウディア・ショーシャ夫人のことがどうも気にかかるようになります。

話し掛けることすら出来ませんが、何かにつけショーシャ夫人と遭遇するように行動したり、そっとあとをつけたりし、段々とハンスはショーシャ夫人への恋心を募らせていくのでした。

3週間が過ぎたら、ここを立ち去ろうと思っていたハンスでしたが、次第に熱っぽさを感じるようになり、長期療養の必要性があると診断されてしまいます。

セテムブリーニは、ハンスがここへやって来た当初から、こんな所から一刻も早く立ち去るべきだとハンスに忠告してくれていました。

しかしハンスは、「レントゲン検査の結果や顧問官の診断が下った今日といえども、ぼくに向って、責任をもって帰国をおすすめになるのですか」(上巻、514ページ)と今では下山をためらうのです。

謝肉祭の日。ついにショーシャ夫人とフランス語で話をすることが出来たハンスは、2人の距離を縮めることに成功しますが、間もなくショーシャ夫人はサナトリウムを去って行ってしまったのでした。

自分の病気が治らないと知ったセテムブリーニもまた、サナトリウムを去りますが、すぐ近くに下宿しているので、ハンスとヨーアヒムとは時折会うことが出来ます。

セテムブリーニと同じ下宿にいるのが、セテムブリーニと同年代の、小柄なやせた、醜い男レオ・ナフタでした。セテムブリーニとナフタの議論から、ハンスは大きな影響を受けることとなります。

ハンスは自分一人で思索にふけるお気に入りの場所を見つけ、人々が話していた事柄や、自分自信の考えをまとめる作業を、「鬼ごっこ」と呼び、その「鬼ごっこ」をよくするようになりました。

やがて、軍人を志望するヨーアヒムは、医者の反対を振り切ってサナトリウムを出ることを決意し、「後からすぐおりてくるようにね」(下巻、166ページ)とハンスに言い残して去って行きます。

しかし、それでもハンスはサナトリウムを離れられないでいるのでした。ハンスのサナトリウムでの日々は飛ぶように過ぎていきます。

そうこうする内に、ハンスが心の底で待ち望んでいたことが起こりました。ショーシャ夫人がサナトリウムに帰って来たのです。

ところが、ショーシャ夫人は旅先で出会ったらしき、メインヘール・ペーペルコルンという、かつてコーヒー園を経営していたという年輩のオランダ人をパートナーとして連れて来ていて・・・。

はたして、ハンスの恋の結末はいかに? そして、様々な思索にふけるようになったハンスはいつ山を降りることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。日本文学にも「教養小説」と呼ばれる作品はいくつかあるのですが、それらはほとんどが、ある理想的なモデルに近付くというような、非常に分かりやすい作りになっています。

感動的なエピソードとともに語られたり、足りなかったものを手にするなど、主人公のどこがどう成長したか、ストーリーとしてはっきり分かるようになっているものが多いんですね。

一方、ドイツ文学の「教養小説」は、主人公が成長すると言っても、何がどう成長したのかがエピソードとしてはあまり語られることがないというのが特徴的だとぼくは感じます。

セテムブリーニもナフタも、ハンスの思索に影響を与えはするものの、不思議と師匠と弟子の関係性は築かれないんですね。

ハンスが成長していったらセテムブリーニになる、あるいはナフタになるという、そういう成長の仕方ではないんです。

その分、ストーリーとして、ハンスがどう成長したのかはあまりよく分からない感じはあるのですが、様々な議論や思索がなされる、とても興味深い小説です。

難解さはありますが、20世紀を代表する世界の文学として語られることの多い作品なので、機会があれば、ぜひ読んでみてください。

明日は、ハインリヒ・フォン・クライスト『こわれがめ』を紹介する予定です。

2016年7月13日水曜日

世界終末戦争(抄)

http://chikuwablog.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-90e3.html

大きく緻密で複雑な物語だ。いろんな読み方があると思う。私は現在のアフガニスタン情勢を連想した。
 分量こそ多く、ノーベル文学賞作家なんて看板は高尚で小難しい印象があるが、お話そのものは難しい
シロモノじゃない。司馬遼太郎の「坂の上の雲」や「翔ぶが如く」のように、個性的な多くの人物が絡み合う、
壮大で凄絶なドラマだ。

 中でも魅力的なのが、舞台となるセルタンゥ。
ブラジルというとアマゾンの熱帯雨林とリオのカーニバルが有名だが、セルタンゥは北部バイア州の内陸部。
解説によればブラジルは沿岸部から発達してきた国で、内陸部は時代に取り残された地域だ。
乾燥したセルタンゥの土地は土地が痩せていて、人々は貧しく教育も行き届かない。
リオ政府の威光より地主や教会が権威で、盗賊の出没も多い。当然、宗教はカトリック。
そこに現れたコンセリェイロ。みすぼらしい格好で清貧を貫き、カトリックの我流解釈で素朴な教えを説き、
辺境の町や村を歩いて回る。多くの人々が彼に感化され巡礼団は大きくなり、カヌードスに住み着く。
 物語はコンセリェイロが人を惹きつける魔力については何も述べず、聖人か狂人かもわからない。
描くのは、彼に感化された者、彼を利用しようとする者、彼に敵対する者など周囲の者たちだ。
筆の多くは、彼の取り巻きに割かれる。孤児で信心深いベアチーニョ、せむしの書記ナトゥーバのレオン、
奇妙な能力で忌み嫌われる女アレジャンドリーニャ・コレアなど、貧しく厳しいセルタンゥの社会すら
はみだしてしまう、弱い者たち。それだけではない。お尋ね者の逃亡奴隷ジョアン・グランジ、
強盗のパジェウやジョアン・サタン改めジョアン・アバージなど、物騒な連中までコンセリェイロに心服し、
カヌードスへやってくる。
 物語の随所で披露される、彼らセルタンゥのはみだし者たちの生い立ちが、それだけで一冊の小説を
書けるぐらい強烈で凄まじい。サタンと恐れられるジョアン・アバージの凄絶な復讐の物語もいいし、
くじけず目端の利く商人アントニオ・ヴィラノヴァの起伏に富む半生も魅力的。
物語は壮絶だが、その語り口は突き放した冷静な文章なのが、乾燥したセルタンゥの空気を感じさせる。
ドライというかハードボイルドというか。
 って書いてて気がついたけど、水滸伝みたいな面白さもあるんだな、この物語。最も、水滸伝のように
「腐敗した政府に戦いを挑む義兵集団」なんてわかりやすい構図じゃないけど、海千山千のならず者集団が、
土地勘と狡猾な戦術で、兵力と装備に勝る正規軍を翻弄する話でもある。
 特に中盤から終盤にかけての戦闘場面はド迫力で、正規軍を相手にゲリラ戦を仕掛けるジョアン・アバージの
狡猾さが冴え渡る。彼が用いる戦術は「作り話だろ」と思うかもしれないが、実は似たような事を
ベトコン&北ベトナム軍がアメリカ軍を相手に、アフガニスタンでマスードがソ連軍相手に、
やはりアフガニスタンでタリバンがISAFを相手にやってる。あ、アメリカは、朝鮮でも
人民解放軍にしてやられてたな。懲りんやっちゃ。
 戦争勃発の経緯も似たようなモンで、つまりは攻め込む側の思い込みと早とちりによる勘違いに始まり、
メンツを潰された意地によるエスカレート。
 当事のブラジルの政治は大きく二つの派閥がある。中央集権を望む共和党、地方分権を志向する自治党。
カヌードスは両者の勢力争いの駒にされ、州政府・共和国政府の敵に祭り上げられる。
いずれも洗練された欧州文化に染まった者たちだが、彼らのモノサシとカヌードスは、全く座標軸が違っている。
この辺の根本的な価値観の違いも、現代のアフガニスタンを連想するんだよなあ。お互いが前提としている
価値観・世界観が違いすぎて、互いに理解し合えないのだ。で、圧倒的な力を持つ者が、
「面倒くさいからヒネり潰しちゃえ」と先走り、ドツボに嵌ってゆく。
根本にある複雑な背景はバッサリ切り捨て、一部を取り上げ単純化して実態と全く異なる形で騒ぐ、
そういう報道は今でも政治関係じゃしょっちゅうで、我々は当事のブラジルと全く変わっていないんだなあ。
むしろ通信網が発達してニュースが素早く行き渡るようになった分、余計に悪化してるのかも。
 この世界観の違いを見事に戯画化しているのが、スコットランド人の無政府主義者ガリレオ・ガル。
変に革命精神に染まっちゃった欧州のインテリの彼が、我流カトリックを基盤とした原始共産制っぽい
カヌードス社会を勝手に理想化し、「彼らなら俺の理想をわかってもらえる!」と思い込み突っ走る姿を、
徹底的にチャカして描いてる。
 んな彼の対偶となるのが、セルタンゥの価値観を体現したかのような男、案内人のルフィーノ。
「案内人」って仕事も、交通や通信が未発達な当事のセルタンゥ社会を象徴している。定住している者だって、
外の世界のニュースは欲しい。けどまったく知らないヨソ者は物騒だ。顔見知りで顔の広い旅人なら、
ニュースを交換するには持ってこい。ってな生活様式に加え、彼とガリレオ・ガルを結びつける因縁、
これがセルタンゥ的な世界観と、それ以外の世界の断絶を見事に象徴している。
そんなセルタンゥ的世界に対し、近代的な国家認識や職業意識を掲げ立ちはだかるのが、第七連隊を
率いるモレイラ・セザル大佐。帝政から共和制に移行する際、ブラジル各地で連戦を重ねたエリート部隊を率いる、
実際的で合理的な軍人さん。強固な意志と鋭い頭脳、そして国家や民衆への誠実な忠誠心を持つ
理想的な軍人として描かれる彼だが…
そんな強烈な意思と意地に生きる男たちの中で、運命を受け入れていくしかない女たちもまた、
セルタンゥの大事な一員。ルフィーノとガリレオ・ガルの因縁に巻き込まれるルフィーノの妻ジュレーマ、
妙な能力を持ってしまったが故に疎まれるアレジャンドリーニャ・コレア、そして「十字架を担ぐ女」
マリア・クアドラート。荒くれ男が闊歩するセルタンゥの中で、なんとかたどり着いた安息の地カヌードス。
 カヌードス vs 政府軍って目で見ると悲劇だが、セルタンゥという土地とそこに生まれた文化の物語として
捉えると、この終幕は…まあ、そういうことです。

 などと「セルタンゥ」を中心に私は読んだけど、きっと他の人は違う物語を読み取ると思う。
一つの新興宗教の興亡の物語でもあるし、殉教の物語でもあるし、田舎と都会の物語でもあり
、中世と近代の物語でもあり、人と国家の物語でもあり、男と女の物語でもある。決して高尚で難しい話じゃない。
波乱万丈で驚きが詰まった、濃密で複雑で壮大なドラマだ。

2016年6月30日木曜日

カート・ヴォネガット

カート・ヴォネガットの生涯
前半生 1922年にインディアナ州インディアナポリスでドイツ系移民の家庭に生まれた。彼の誕生日は第一次世界大戦の3年目の休戦記念日である。ヴォネガットはこのことを誇りとしており、後に祭日の名称が「復員軍人の日」に変更されたことについて『チャンピオンたちの朝食』の中で批判的に取り上げている。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父は共にMIT出身で、Vonnegut & Bohn というインディアナポリスの建設会社で建築士を務めていた。曽祖父は Vonnegut Hardware Company という会社を起業した人物である。1940年にコーネル大学に入学し生化学を学ぶ一方で学内紙の『コーネル・デイリー・サン』の副編集長も務めた。コーネル大学では父と同じフラタニティである Delta Upsilon に属していた。コーネル大学在学中にアメリカ陸軍に徴募される。陸軍はヴォネガットをカーネギー工科大学とテネシー大学に転校させ、機械工学を学ばせた。1944年の母の日に母のエディスが睡眠薬を過剰摂取し自殺した。生活の困窮や息子のドイツ戦線配属を苦にしたものとされている。

第二次世界大戦 カート・ヴォネガットが兵士および捕虜として戦争で経験したことは、後の作品に深い影響を与えている。1944年、アメリカ合衆国第106歩兵師団第423普通科連隊の兵卒として第二次世界大戦の欧州戦線に参加し、バルジの戦いでコートニー・ホッジス率いる第1軍から第106歩兵師団が分断され取り残された12月19日に捕虜となった。「味方のアメリカ軍とははぐれてしまった。我々はその場で戦うことを余儀なくされた。しかし銃剣は戦車には太刀打ちできない……」ドレスデンに連れて行かれたヴォネガットは、ドイツ語が少しできるということで捕虜のリーダーの1人に選ばれた。ドイツ軍守衛に「…ロシア軍がやってきたら、やってやろうと思っていること…」を話したことで打ち据えられ、リーダーの地位も剥奪された。捕虜として1945年2月の同盟軍(英米の空爆部隊)によるドレスデン爆撃を経験した。芸術品と謳われたドレスデン市街は壊滅した。ヴォネガットを含むアメリカ人捕虜の一団は、ドイツ軍が急ごしらえの捕虜収容所に使用した屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人はその建物を Schlachthof Funf(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『スローターハウス5』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記しているヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している。1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている。
戦後
1945年に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットはシカゴ大学大学院で人類学を学び、同時に City News Bureau of Chicago で働いた。これは当時5紙あったシカゴの地方紙に記事を提供する遊軍のようなものだった。『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』によれば、彼の論文テーマ(キュビスム画家と19世紀末ネイティブ・アメリカン暴動のリーダーたちとの類似点を論じるもの)は「学術的でない」という理由で大学側に拒絶されたという。1947年、彼はシカゴからニューヨーク州スケネクタディに移り、ゼネラル・エレクトリックの広報で働くようになった(兄が開発部門で働いていた)。そのころヴォネガットはスケネクタディとは川を挟んだ対岸の町に住み、数年間はボランティアの消防団員として熱心に活動した。当時彼が住んでいたアパートには、今も彼が小説を書くのに使っていた机があり、彼が自分で名前を彫った跡が残っている。そこで『スローターハウス5』を書き始めたと言われている。なお、シカゴ大学は後に小説『猫のゆりかご』の人類学的記述をヴォネガットの論文として受理し、1971年に修士号を授与した。1950年に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。1951年にマサチューセッツ州ケープコッドに居を移し、サーブのアメリカ初の販売店の店長をつとめた。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。1950年代中ごろ、ヴォネガットは短期間だけスポーツ・イラストレイテッド誌編集部で働き、柵を飛び越えて逃走しようとした競走馬についての記事を書くよう指示された。午前中ずっとタイプライタに挟まった真っ白な紙を見つめた後、彼は「馬はいまいましいフェンスを飛び越えた」とだけタイプし、編集部を去った。作家として評価されず、執筆をやめてしまおうとする寸前の1965年、ヴォネガットはアイオワ大学の Writers' Workshop での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中にはジョン・アーヴィングなどがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、20世紀アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、1966年には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』はタイム誌や Modern Libraryのベスト100に選ばれている。2007年4月11日にニューヨークにて死去。
私生活
当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄のバーナード・ヴォネガットは大気科学者で、ヨウ化銀を用いた人工降雨法を開発した。第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。マハリシ・マヘッシ・ヨギに傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子であるマーク・ヴォネガットは小児科医となった。マークは自身が1960年代に経験した統合失調症からの回復の記録である『エデン特急―ヒッピーと狂気の記録』を記した。マークの名はヴォネガットがアメリカの聖人だと考えていたマーク・トウェインからとった。娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。
姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『スラップスティック』に描かれている。1999年11月11日、小惑星 25399 Vonnegut にヴォネガットの名がつけられた。2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。ヴォネガットはフィルターのないポールモールを好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた。2007年、マンハッタンの自宅で転落して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去。
作家としての経歴
1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」でSF作家としてデビューした。処女長編はディストピア小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『タイタンの妖女』を出版。1960年代には徐々に作風が変化していった。『猫のゆりかご』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『スローターハウス5』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。また、ヴォネガット作品に繰り返し登場する人物たちも出てくる。特にSF作家キルゴア・トラウトが主役級で登場し、他の登場人物たちとやりとりする。ヴォネガットの作品には慈善家エリオット・ローズウォーター、ナチ宣伝員ハワード・W・キャンベル・ジュニア、ラムファード一族、トラルファマドール星人などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。
なかでもスタージョンをモデルに造形されたといわれるSF作家キルゴア・トラウトはカート自身の分身とも言われ『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり『タイムクエイク』では主役として活躍する。『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットがトラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している。ヴォネガットはキルゴア・トラウトの名を借りて個人的意見を作品内で表明することが多い。
また、SF作家フィリップ・ホセ・ファーマーはキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(Venus on the Half-Shell 1975年)を発表し話題となった。発表当時、これをヴォネガットの作品と誤解する読者が多く、後に作者が明らかにされるとヴォネガットは不快感を表明した(ヴォネガットはファーマーに執筆の許可を与えていたのだが、予想を超えた騒ぎに怒りを表明し、さらなる「トラウト作品」の刊行を拒否した)。
ヴォネガットは1984年に自殺未遂しており、後にいくつかのエッセイでそのことについて書いている。登場人物以外にも頻繁に登場するテーマまたはアイデアがある。例えば『猫のゆりかご』の「アイス・ナイン」である。ヴォネガット本人は「SF作家」とレッテル付けされるのを嫌ったが、一方で「現代の作家が、科学技術に無知であることはおかしい」と主張しほとんどの作品でSF的なアイデアが使用されている。それでもSFというジャンルの壁を越えて幅広く読まれたのは、単に反権威主義的だったからだけではない。例えば短編「ハリスン・バージロン」は、平等主義のような精神が行過ぎた権力と結びついたとき、どれほど恐ろしい抑圧を生むかを鮮やかに描いて見せている。
1997年の『タイムクエイク』出版に際して、ヴォネガットは同書が最後の小説になると発表し、以降はエッセイやイラストの発表、講演等を中心に活動した。2005年にはエッセイをまとめた『国のない男』を出版し、文筆業そのものからの引退を表明した。
死の直後に出版されたエッセイ集『追憶のハルマゲドン』には、未発表の短編小説や第二次世界大戦中に家族宛てに書いた手紙などが含まれている。またヴォネガット本人の描いた絵や死の直前に書いたスピーチ原稿も含まれている。序文は息子のマーク・ヴォネガットが書いている。
ヴォネガットはハーバード大学で英文学の講師をつとめたことがあり、ニューヨーク市立大学シティカレッジでも一時期教授をつとめている。
日本での受容
日本においては1960年代後半から浅倉久志、伊藤典夫等によって精力的に紹介されていた。1980年代になり日本でも主要な作品の多くが和田誠のカバーイラストと共にハヤカワ文庫SF(早川書房)より刊行された。1984年には国際ペン大会にロブ=グリエ、巴金等と共にゲストとして来日し大江健三郎とも会談している。ヴォネガットから影響を受けた日本人作家としては、第一作の『風の歌を聴け』でヴォネガットのスタイルを模写した村上春樹や高橋源一郎、橋本治等がいる。爆笑問題の太田光は熱心なファンとして知られ彼らが設立した所属事務所「タイタン」の名称は『タイタンの妖女』と「太田」の別読みをかけて付けられたものである。
政治姿勢
ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の Powers Hapgood とユージン・V・デブスは作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアのレフ・トロツキーの名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットはアメリカ自由人権協会の会員でもあった。
ヴォネガットは倫理問題や政治問題を扱うことが多かったが、具体的な政治家について言及するようになったのは小説執筆から引退してからのことである。『ジェイルバード』の主人公ウォルター・スターバックが囚人となったのはリチャード・ニクソンのウォーターゲート事件が原因だが、物語の中心はそこではない。God Bless You, Dr. Kevorkian では、論争の的となった自殺幇助者ジャック・ケヴォーキアンに言及している。
In These Times 誌のコラムでは、ブッシュ政権とイラク戦争について痛烈な批判を展開した。「我々のリーダーが権力におぼれたチンパンジーだと言ったら、私は中東で戦い死んでいっている兵士たちの士気を台無しにすることになるだろうか?」とヴォネガットは書いている。「彼らの士気は多数の死体と共にすでにばらばらになっている。彼らはまるで金持ちの子がクリスマスに与えられたおもちゃのように扱われており、それは私が兵士だったときとは全く異なる」In These Times ではヴォネガットの言葉として「ヒトラーとブッシュの唯一の違いは、ヒトラーが選挙で選ばれたという点だ」と引用している。2003年のインタビューでヴォネガットは「わが国のためには、火星人やボディスナッチャーに侵略されて戦ったほうがましだったと思う。時々、本当にそうだったらよかったのにと思う。しかし現実に起こったのは、極めて軽薄で低級な「キーストン・コップス」のようなクーデター劇だった。そしていま連邦政府を牛耳っているのは、歴史も地理もわからないお坊ちゃん学生と、それほど閉鎖的でもない『キリスト教徒』と呼ばれる白人至上主義者と、怖がりの精神病質者すなわちPP (psychopathic personalities) だ」と述べている。2003年のインタビュー冒頭で調子を尋ねられると彼は「高齢であることに夢中で、アメリカ人であることに夢中だ。それはそれとして、OKだ」と応えた。
『国のない男』で彼は「ジョージ・W・ブッシュは、彼の周囲に歴史も地理も全く知らないお坊ちゃん学生を集めた」と書いていた。彼は2004年の大統領選挙については全く楽観していなかった。ブッシュとジョン・ケリーについて彼は「どちらが勝ってもスカル・アンド・ボーンズの大統領になることに変わりはない。我々が土壌や水や大気を汚染してきたせいで、あらゆる脊椎動物が頭蓋骨(スカル)と骨(ボーンズ)だけになろうって時にだ」と述べている。
2005年、ヴォネガットはオーストラリアン紙によるデイヴィッド・ネイスンのインタビューを受けた。その中で最近のテロリストについて意見を求められ、「とても勇敢な人たちだと思う」と応えた。さらに訊かれるとヴォネガットは「彼ら(自爆テロ犯)は自尊心のために死ぬ。自尊心を誰かから奪うというのはひどいことだ。それはあなたの文化や民族や全てを否定されるようなものだ……信じるもののために死ぬことは甘美で立派なことだ」と答えた。最後の文はホラティウスの金言 "Dulce et decorum est pro patria mori"(お国のために死ぬのは甘美で適切だ)をもじったもので、ウィルフレッド・オーエンの Dulce Et Decorum Est における皮肉な引用が出典とも考えられる。ネイスンはヴォネガットのコメントに腹を立て、生きる希望をなくしテロリストを面白がっている老人だと決め付けた。ヴォネガットの息子マークはこの記事に対する反論をボストン・グローブ紙に書いた。すなわち父の「挑発的な姿勢」の背後にある理由を説明し、「まったく無防備な83歳の英語圏の人物が公の場で思っていることをそのまま言うと誤解し見くびるような解説者は、敵が何を考えているかも理解できていないのではないかと心配すべきだ」と記した。
2006年のローリング・ストーン誌のインタビュー記事には、「…彼(ヴォネガット)がイラク戦争のすべてを軽蔑することは驚くべきことではない。2500人を越えるアメリカ兵が、彼が不要な衝突と考えている状況の中で殺されているという事実は彼をうならせる。『正直なところ、ニクソンが大統領ならよかった』とヴォネガットは嘆く。『ブッシュはあまりにも無知だ』」とある。
ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」
宗教
ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身である。曽祖父のクレメンス・ヴォネガットは Instruction in Morals と題した自由思想の本を書いたことがあり、自身の葬式については神の存在を否定し、死後の生を否定し、キリスト教の罪と救済の教義を否定した言葉を言い残していた。カート・ヴォネガットは『パームサンデー』の中で曽祖父の葬儀についての言葉を再現し、自由思想が「先祖代々の宗教」だとしているが、どうしてそれが自分に受け継がれたのかは謎だとしていた。
ヴォネガットは自身を懐疑論者、自由思想家、ヒューマニスト、UU教徒、不可知論者、無神論者と様々に言い表している。超自然的なものは信じず、宗教の教義を「あまりにも独断的で明白に発明されたたわごと」だと考えており、人々が入信するのは寂しさが原因だと信じている。
ヴォネガットは自由思想の現代版がヒューマニズムだと見なしており、作品や発言やインタビューで事あるごとにヒューマニズムへの支持を表明している。Council for Secular Humanism の International Academy of Humanism に名誉ヒューマニストとして参加していた。1992年には American Humanist Association により Humanist of the Year に選ばれた。友人のアイザック・アシモフから American Humanist Association (AHA) の名誉会長の座を引き継ぎ、亡くなるまでそれを務めた[42]。AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている。
ヴォネガットは一時期ユニテリアン主義の一派ユニテリアン・ユニヴァーサリズムに入信していた[36]。『パームサンデー』には、ヴォネガットがマサチューセッツ州ケンブリッジの First Parish Unitarian Church で行った説教(アメリカ合衆国にユニテリアン主義をもたらした William Ellery Channing に関するもの)が収録されている。1986年、ヴォネガットはニューヨーク州ロチェスターでユニテリアン・ユニヴァーサリズムの集会で講演し、その原稿が『死よりも悪い運命』に収録された。同書には、ニューヨーク州バッファローで行った「ミサ曲」も収録されている[44]。ヴォネガットによれば、二度の大戦の間にアメリカ合衆国で自由思想や他のドイツ人の「宗教的狂信」の人気がなくなったとき、彼の自由思想の一族の多くがユニテリアンに改宗したという[37]。ヴォネガットの両親はユニテリアン式の結婚をしており、彼の息子も一時期ユニテリアンの聖職者だったことがある[36]。
ヴォネガットの宗教観は単純なものではない。イエス・キリストの神性を拒絶するにもかかわらず[、イエスの祝福が彼のヒューマニズムの根本にあると信じている[45]。彼は自分を不可知論者または無神論者だとしているが、同時に神についてよく語っている[37]。「先祖代々の宗教」が自由思想、ヒューマニズム、不可知論だと説明し、ユニテリアン信者であるにも関わらず、自身を無宗教だとも言っている。American Humanist Association によるプレスリリースでは、彼を「完全な俗人」だとしていた。
出演経験
アラン・メッターが監督した1986年の映画『バック・トゥ・スクール』(1986年)では本人役で出演した。
また自分の作品を映画化した Mother Night と『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』にもカメオ出演した。エンロンの広告に登場したことがある。1 Giant Leap というバンドの2002年のDVDにゲスト出演し、音楽について語っている。
2006年8月、Second Life 内でインタビューを受け、The Infinite Mind というラジオ番組で放送さた。Second Life でのインタビューの模様は YouTube で公開されている。

長編小説
長編小説はすべて邦訳されたがそのうちいくつかは現在絶版となっている。
プレイヤー・ピアノ(Player Piano 1952年)、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF、1975年
タイタンの妖女(The Sirens of Titan 1959年)、浅倉久志訳、早川書房、1972年。1973年度星雲賞(海外長編部門)
母なる夜(Mother Night 1961年)、飛田茂雄訳でハヤカワ文庫SF
猫のゆりかご(Cat's Cradle 1963年)伊藤典夫訳、早川書房、1968年
ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine 1965年)『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを : または、豚に真珠』として浅倉久志訳、早川書房、1977年。
スローターハウス5(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death 1969年)て伊藤典夫訳、早川書房、1973年。
チャンピオンたちの朝食(Breakfast of Champions, or Goodbye, Blue Monday 1973年)浅倉久志 訳 早川書房 1984年。
スラップスティック(Slapstick, or Lonesome No More 1976年)『スラップスティック : または、もう孤独じゃない!』として浅倉久志訳、早川書房、1979年
ジェイルバード(Jailbird 1979年)浅倉久志 訳 早川書房 1981年
デッドアイディック(Deadeye Dick 1982年)浅倉久志訳 早川書房 1984年
ガラパゴスの箱舟(Galapagos 1985年)浅倉久志訳 早川書房 1986年
青ひげ(Bluebeard 1987年)浅倉久志訳 早川書房 1989年
ホーカス・ポーカス(Hocus Pocus 1990年)浅倉久志訳 早川書房 1992年、のち文庫
タイムクエイク(Timequake 1997年)『タイムクエイク : 時震』として浅倉久志訳 早川書房 1998年、
短編集
いずれも初期の短編を収録している。
Canary in a Cathouse(1961年)、収められた短編の大半は『モンキーハウスにようこそ』に再録。
モンキーハウスへようこそ(Welcome to the Monkey House 1968年)伊藤典夫、吉田誠一、浅倉久志、他訳、早川書房、1983年。のち文庫
バゴンボの嗅ぎタバコ入れ(Bagombo Snuff Box 1999年)浅倉久志, 伊藤典夫訳 早川書房 2000年、のち文庫
はい、チーズ(Look at the Birdie 2009年)大森望訳、河出書房新社、2014年
エッセイなど[編集]