2016年8月12日金曜日

魔の山(抜粋)

山の上にあるサナトリウム(結核患者のための療養所)に入っているいとこのお見舞いに行った23歳の青年、ハンス・カストルプ。

3週間滞在の予定でしたが、熱っぽくなったり、いつしかハンス自身の体調もよくなくなり、長期滞在を余儀なくされてしまうのです。

時間の流れが下界よりもゆっくり感じられることもあり、3週間が1年になり、1年が2年になり、数年が飛ぶように過ぎていきますが、体調はよくならず、なかなか山を降りることが出来ません。

ごく平凡な青年だったハンスは、世界の色々な国々から集まった、様々な考えを持つ患者たちと触れ合う内に、物事について深く考えるようになっていって・・・というお話。

この小説で重要なのは、ハンスがどんな考えを吸収し、どんな考えを持つようになっていったかであり、ストーリーではないんですね。ストーリーらしいストーリーというのは、実はほとんどありません。

なので、世界文学の傑作として名高い作品ですが、読み通すのはなかなかに骨が折れます。実を言うと、ぼくもかつて岩波文庫の関泰祐・望月市恵訳に4回ぐらい挑んで、すべて途中で遭難したほどです。

翻訳のよしあしは置いておいて、新潮文庫の高橋義孝訳の方が活字の組み方にせよ、訳文にせよ読みやすいので、岩波文庫で挫折してしまった人は、新潮文庫で再挑戦してみるとよいかもしれませんよ。

登場人物が結構多い作品ですが、覚えておくべき登場人物は少ないです。まず、主人公であるハンス・カストルプと、言わばサナトリウムの先輩である、いとこのヨーアヒム・ツィームセン。

いつしかハンスが思いを寄せるようになるロシアの女性、クラウディア・ショーシャ夫人。物語的にはこの3人を覚えておいてください。

物語とはある意味では別に、独自の考えを持ち、ハンスに色々な考えを吹き込む登場人物がいます。中でも重要なのは2人で、イタリア人のロドヴィゴ・セテムブリーニと、その論敵レオ・ナフタです。

上巻で目立つのが、セテムブリーニ。サナトリウムの先輩にあたり、ギリシア・ローマの芸術を重んじることによって、新たな人間性を獲得するべきだという「人文主義者 homohumanus」です。

文学的知識を駆使し、時にハンスをからかうような、謎かけをするような口ぶりで様々な事柄について話をするセテムブリーニは後に、フリーメイソン(世界的な秘密結社)の会員であることが分かります。

やがて、病気が治らないことをはっきりと知り、死を意識しつつ、セテムブリーニはサナトリウムを離れるのですが、その時に同じ下宿になり、知り合いになったのが、レオ・ナフタという古典語教授。

イェズス会に入り、神学の道を進んでいたナフタは、病気で体を壊して療養を余儀なくされ、宗教の道で出世する道を閉ざされてしまいました。下巻から登場し、セテムブリーニと激しく議論を交わします。

では、実際にセテムブリーニとナフタの議論がどんな感じなのか、どういう難しさのある小説なのかがよく分かるとも思うので、少し長いですが、ハイライトとも言える場面からそれを見てみましょう。

「少し論理的にお願いいたしたい」とナフタが応じた。「プトレマイオスとスコラ派が正しいとします。すると世界は時間的、空間的に有限です。そうなると神性は超越的であり、神と世界との対立は保持され、人間も二元的存在である。すなわち魂の問題は感覚的なものと超感覚的なものとの抗争にあり、すべての社会的要素はずっと下の方の二義的なものになる。こういう個人主義だけを、私は首尾一貫せるものとして承認できるのです。ところがこんどは、あなたのルネッサンス天文学者が真理を発見したとします。すると宇宙は無限です。そうなれば超感覚的世界は存在せず、二元論は存在しない。彼岸は此岸に吸収され、神と自然の対立は根拠を失う。そしてこの場合には人間の人格も、ふたつの敵対的原理の闘争の舞台ではなくなり、調和的であり、統一的である。したがって人間の内面的葛藤は、ただ個人と全体との利害の葛藤にのみもとづくことになり、実に異教的なことに、国家の目的が道徳の法則になる。これか、あれかです」(下巻、114ページ)

もう何言ってるんだかよく分からん! という感じかも知れませんね。この後、セテムブリーニが反論し、2人の議論はますます白熱していくことになります。その議論をハンスは聞いているわけです。

セテムブリーニとナフタの、それぞれの立場や考え方の違いについて、ここで詳しくは触れられませんが、”世界”をどうとらえるかという時点で、認識のずれがあるのが分かってもらえたかと思います。

この世界がどのように出来ているか(或いは人間がどう認識するか)、それをどう考えるかによって、国家の役割とは何か、そして人はどのように生きていくべきかの考え方が違って来るわけですね。

『魔の山』はこうした哲学的議論で成り立っていて、ある程度飛ばしてハンスの恋愛だけに着目して読めないこともないのですが、それではこの小説の醍醐味が失われてしまうというジレンマがあります。

確かに内容的に難解な小説ですが、世界をいかに認識し、人間はどう生きていくべきかというのは、みなさんも興味のあるテーマだと思うので、ハンスと一緒にじっくり考えてみてはいかがでしょうか。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 ひとりの単純な青年が、夏の盛りに、故郷ハムブルクをたって、グラウビュンデン州ダヴォス・プラッツへ向った。三週間の予定で人を訪ねようというのである。(上巻、13ページ)

その青年の名前はハンス・カストルプ。工業大学でエンジニアとしての勉強に励み、就職した会社の造船所で、間もなく実習生として働くことが決まっています。

難しい試験を突破するために少し根を詰めすぎたハンスは医者もすすめもあり、息抜きをかねて、サナトリウムに入っているいとこのヨーアヒム・ツィームヒンのお見舞いに出かけたのでした。

迎えに来てくれたヨーアヒムは、サナトリウムでの生活の話をしてくれますが、まだこれから半年も療養する予定だと言ってハンスを驚かせ、あそこでは下界とは時間の流れ方が違うんだと言います。

「ここにいる連中は普通の時間なんかなんとも思っていないんだ。まさかとは思うだろうけれどね。三週間なんて彼らにすれば一日も同然なんだ。いまにきっとわかってくるよ。なにもかもきっとのみこめてくるさ」といってから、ヨーアヒムはこう付け加えた。「ここにいると概念が変ってくるんだ」
 ハンス・カストルプはじっと横からいとこを眺めていた。
(上巻、21ページ、本文では「いとこ」に傍点)

34号室に入ったハンスは見学者のような感じではあるものの、ヨーアヒムと一緒に、一日五食のサナトリウム生活を送り始めます。

やがてハンスは、イタリア人の文学者ロドヴィゴ・セテムブリーニと出会いました。30歳から40歳の中頃で、大きな襟の長すぎる上着、淡黄色の弁慶格子の太いズボンを身に着けた紳士です。

「いや、それはどうも。ではあなたはわれわれの身内ではいらっしゃらないというわけですな。ご丈夫で、ここへは単に聴講生としてこられたということですか、冥府をおとずれたオデュッセウスのように。いや実にご大胆なことだ。亡者どもが酔生夢死の暮しを送っているこの深淵へ降りてこられたとは。――」
「深淵とおっしゃるのですか、セテムブリーニさん。ご冗談を。ぼくは五千フィートあまりも上ってあなたがたのところへやってきたのですが」
「それは感じただけのことです。そうですね、それは錯覚ですね」と、イタリア人ははっきりと手を振っていった。
(上巻、122ページ)

やがてハンスは、少年時代に一方的に強い友情を感じていた友達と、どことなく似ているロシア人女性、クラウディア・ショーシャ夫人のことがどうも気にかかるようになります。

話し掛けることすら出来ませんが、何かにつけショーシャ夫人と遭遇するように行動したり、そっとあとをつけたりし、段々とハンスはショーシャ夫人への恋心を募らせていくのでした。

3週間が過ぎたら、ここを立ち去ろうと思っていたハンスでしたが、次第に熱っぽさを感じるようになり、長期療養の必要性があると診断されてしまいます。

セテムブリーニは、ハンスがここへやって来た当初から、こんな所から一刻も早く立ち去るべきだとハンスに忠告してくれていました。

しかしハンスは、「レントゲン検査の結果や顧問官の診断が下った今日といえども、ぼくに向って、責任をもって帰国をおすすめになるのですか」(上巻、514ページ)と今では下山をためらうのです。

謝肉祭の日。ついにショーシャ夫人とフランス語で話をすることが出来たハンスは、2人の距離を縮めることに成功しますが、間もなくショーシャ夫人はサナトリウムを去って行ってしまったのでした。

自分の病気が治らないと知ったセテムブリーニもまた、サナトリウムを去りますが、すぐ近くに下宿しているので、ハンスとヨーアヒムとは時折会うことが出来ます。

セテムブリーニと同じ下宿にいるのが、セテムブリーニと同年代の、小柄なやせた、醜い男レオ・ナフタでした。セテムブリーニとナフタの議論から、ハンスは大きな影響を受けることとなります。

ハンスは自分一人で思索にふけるお気に入りの場所を見つけ、人々が話していた事柄や、自分自信の考えをまとめる作業を、「鬼ごっこ」と呼び、その「鬼ごっこ」をよくするようになりました。

やがて、軍人を志望するヨーアヒムは、医者の反対を振り切ってサナトリウムを出ることを決意し、「後からすぐおりてくるようにね」(下巻、166ページ)とハンスに言い残して去って行きます。

しかし、それでもハンスはサナトリウムを離れられないでいるのでした。ハンスのサナトリウムでの日々は飛ぶように過ぎていきます。

そうこうする内に、ハンスが心の底で待ち望んでいたことが起こりました。ショーシャ夫人がサナトリウムに帰って来たのです。

ところが、ショーシャ夫人は旅先で出会ったらしき、メインヘール・ペーペルコルンという、かつてコーヒー園を経営していたという年輩のオランダ人をパートナーとして連れて来ていて・・・。

はたして、ハンスの恋の結末はいかに? そして、様々な思索にふけるようになったハンスはいつ山を降りることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。日本文学にも「教養小説」と呼ばれる作品はいくつかあるのですが、それらはほとんどが、ある理想的なモデルに近付くというような、非常に分かりやすい作りになっています。

感動的なエピソードとともに語られたり、足りなかったものを手にするなど、主人公のどこがどう成長したか、ストーリーとしてはっきり分かるようになっているものが多いんですね。

一方、ドイツ文学の「教養小説」は、主人公が成長すると言っても、何がどう成長したのかがエピソードとしてはあまり語られることがないというのが特徴的だとぼくは感じます。

セテムブリーニもナフタも、ハンスの思索に影響を与えはするものの、不思議と師匠と弟子の関係性は築かれないんですね。

ハンスが成長していったらセテムブリーニになる、あるいはナフタになるという、そういう成長の仕方ではないんです。

その分、ストーリーとして、ハンスがどう成長したのかはあまりよく分からない感じはあるのですが、様々な議論や思索がなされる、とても興味深い小説です。

難解さはありますが、20世紀を代表する世界の文学として語られることの多い作品なので、機会があれば、ぜひ読んでみてください。

明日は、ハインリヒ・フォン・クライスト『こわれがめ』を紹介する予定です。