2017年12月9日土曜日

ベルクソンについて

アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例、1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。
幼少期[編集]
ポーランド系ユダヤ人を父、イギリス人を母として、パリのオペラ座からそう遠くないラマルティーヌ通り (現在のパリ9区 Rue Lamartine) で生まれる(妹のミナは、イギリスのオカルティスト、マグレガー・メイザースと結婚し、モイナ・メイザース(英語版)と名乗った)。誕生後数年は、家族とイギリス・ロンドンで生活を送る。母によって、早くから英語に慣れ親しんだ。彼が9歳になる前に、彼の家族は、フランス、ノルマンディー地方マンシュ県に移り居を構える。
学生時代[編集]
パリ9区のリセ・フォンタネ(現在のリセ・コンドルセ)で古典学と数学を深く修めた後、パリ大学で人文学を専攻し、グランゼコールの一つである国立高等師範学校に入学した。そこでは、教授たちは、新カント派ばかりであったため、ベルクソンは、教授たちに反発しながら、一方でハーバート・スペンサーの著作を熟読して、実証主義・社会進化論への理解を深めた。そして、それらを通して、自己の哲学を形成していった。1881年に受けた教授資格国家試験では、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学一般を強く批判する解答をした。そのため、審査員の不興を買うことになり、ベルクソンは2位で合格する。
『時間と自由』[編集]
合格後、リセ教師となったベルクソンは、アンジェのリセ・ダビッド=ダンジェ (Lycée David-d'Angers) 、クレルモン=フェランのリセ・ブレーズ=パスカル (Lycée Blaise-Pascal de Clermont-Ferrand) などで教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして、ベルクソンは、1888年にソルボンヌ大学に学位論文「意識に直接与えられたものについての試論」(英訳の題名は「時間と自由意志」)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で、ベルクソンは、これまで「時間」と呼ばれてきたものは、空間的な認識を用いることで、本来分割できないはずのものを分節化することによって生じたものであると批判した。そして、ベルクソンは、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("durée")と呼び、この考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。
『物質と記憶』[編集]
1896年には、ベルクソンは、哲学上の大問題である心身問題を扱った『物質と記憶』を発表した。この本は、ベルクソンにとって第二の主著であり、失語症についての研究を手がかりとして、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身問題に取り組んでいる。
すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。
コレージュ・ド・フランスへ[編集]
1900年よりコレージュ・ド・フランス教授に就任し、1904年にはタルドの後任として近代哲学の教授に就任する。1914年に休講(1921年正式に辞職)するまでそこで広く一般の人々を相手に講義をすることになる(ベルクソンは結局、大学の正式な教授になることはなかった)。その講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。
『創造的進化』[編集]
1907年に第三の主著『創造的進化』を発表する。この本の中で、ベルクソンは、スペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱した。そして、『物質と記憶』で論じた意識と身体についての考察を生命論の方向へとさらに押し進めた。これは、ベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進めたものといえる。そこで生命の進化を押し進める根源的な力として想定されたのが、"élan vital"「エラン・ヴィタール 生命の飛躍(生の飛躍)」である。
国際舞台での活躍[編集]
国の内外で名声の高まっていったベルクソンは、公の場にも引っぱり出されるようになる。第一次世界大戦中の1917年・1918年には、フランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣された。また、大戦後の1922年には、国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員会の委員に任命され、第一回会合では議長となって手腕を振るった(ちなみに、当時の国際連盟事務次長であった新渡戸稲造とも面識があった)。1930年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。
また、ベルクソンの文章は、明快かつ美しい文章で書かれているため、散文としての評価も高く、1927年にはノーベル文学賞を受賞している。
『二源泉』[編集]
こうした公的活動の激務のなかでも、ベルクソンの著作を書く意欲は衰えず、1932年に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。
すなわち、創造的進化の展開のうち、エラン・ビタール、そして天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在が緊張の極に置かれ、かかる特権的個人の行為を通じて発出するエラン・ダムールによる地上的持続の志向と参与を真の倫理的・宗教的行為であるとした。
晩年[編集]
晩年には、進行性の関節リウマチを病み、苦しんでいた。1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍の進撃を避け田舎へと疎開するが、しばらくしてパリの自宅へ戻っている。これは、反ユダヤ主義の猛威が吹き荒れる中、同胞を見棄てることができなかったからだといわれている。清貧の生活を続けるも、1941年の初頭に凍てつく寒さの中、ドイツ軍占領下のパリの自宅にて風邪が悪化したことにより、ひっそりと世を去った。ドイツ軍占領下ということもあって、参列者の少ない寂しい葬儀を終えた後、パリ近郊のガルシュ墓地に埋葬された。

パンテオンに刻まれたベルクソンの碑文
葬儀に参加したポール・ヴァレリーは、
「
アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であったが、それとともに、偉大な人間の友であった
」
と弔辞を述べて、ベルクソンを讃えている。
ベルクソンの死から26年を過ぎた1967年、その功績が讃えられ、パンテオンにベルクソンの名が刻まれ、祀られることとなった。
その著作と生涯によって、フランスおよび人類の思想に栄誉をもたらした哲学者 ── アンリ・ベルクソン— パンテオンに刻まれた碑文
思想[編集]
生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタインが相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。
一方で、ベルクソンは新プラトン主義のプロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンは霊やテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913年、英国心霊現象研究協会の会長に就任している。
こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される[要出典]。
影響[編集]
ベルクソンの哲学は、当時の人々だけでなく、後の世代にも大きい影響を与えた。その影響は、弟子のガブリエル・マルセル、マルティン・ハイデッガー、ジャンケレヴィッチ、ウィリアム・ジェームズ、サルトル、バシュラール、レヴィナス、メルロ=ポンティ、アルフレッド・シュッツ、エティエンヌ・ジルソン、ジャック・マリタン、ドゥルーズ、西田幾多郎といった哲学者たちのみならず、政治哲学者のジョルジュ・ソレルや作家のプルーストなど幅広くに及んでいる。
小林秀雄は、1958年から63年に<ベルクソン論>を「感想」のタイトルで、『新潮』に連載したが未完作に終わり生前は未刊行であった。2001年より刊行開始した『小林秀雄全集 別巻1』と、『小林秀雄全作品 別巻1・2』(現代かなづかい・語注入り、各 新潮社)に収録された。

2017年11月8日水曜日

モダンとポストモダン

モダニズム文学

日本では昭和初期から欧米の文芸作品、超現実主義などの文芸思潮の紹介を介して根付いた。横光利一、川端康成などの新感覚派の作品、吉行エイスケや龍胆寺雄などの風俗的なモダン趣味、現代詩初期の運動などが、日本のモダニズム文学の出発点と考えられている。小説の分野ではモダニズムの影響は表層的一過的であったが、現代詩の分野では、詩誌「詩と詩論」などの昭和初期のモダニズム運動から始まった流れは、戦後も詩誌「荒地」、「凶区」の詩、吉岡実の詩など、一貫した影響を残した。

例えば、湯川豊はモダニズム文学の特徴を次のように書いている[1]。
  1. 前衛的である。モダニズム文学という言葉が、ボードレールの美術批評のなかの「現代性(モデルニテ)という言葉から始まったように、新しさを求める。
  2. 古典の再発見ということが、理念の中心にある。
  3. そこには研ぎすまされた方法意識がある。従来の文学がもっている表現方法がどんなものであるのかを知り、それを土台にして新しい文学をつくる、ということ。
(ポストモダン文学)
近代文学は無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性などの特徴を持つ。これに対し、ポストモダン文学は物語の矛盾を肯定的に含んだり(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。
ポストモダン作家はしばしば、『ドン・キホーテ』や『千夜一夜物語』、『デカメロン』や『カンディード』など多くの古い小説や物語の中にみられる構造やナラティブの実験性を指摘している。英語圏では、ポストモダンへの影響としてローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』(1759年)の重量級の語彙、パロディ、物語の実験性などが度々言及される。他にもバイロンの風刺(特に『ドン・ジュアン』)、トマス・カーライルの『衣服哲学』、アルフレッド・ジャリの下品な『ユビュ王』とそのパロディや「パタフィジック」の発明、ルイス・キャロルの言葉遊び、ロートレアモンやアルチュール・ランボー、そしてオスカー・ワイルドなど、19世紀の啓蒙思想に対する攻撃やパロディ、冗談などを色濃く示している作品が多い。スウェーデンの劇作家アウグスト・ストリンドベリ、イタリアの作家ルイジ・ピランデロ、ドイツの劇作家で理論家のベルトルト・ブレヒトなど、19世紀から20世紀初頭の劇作家たちは、ポストモダンに美的な影響を与えたといわれる。1910年、ダダイスムの流れの中でアーティストたちは、遊び心や偶然性を称賛し、新たな芸術に挑んだ(要説明)。トリスタン・ツァラは『ダダイストの詩の作り方』で、山高帽の中にランダムに入れられた単語を順番に取り出してつくるダダイストの創作方法を提案した。他にも、ダダイスムは大学の発展の中でもポストモダンに影響を与えている。大学では既存の広告や有名な小説の押絵などを使用した(マックス・エルンストの大学のように)。ダダイスムから発展し、意識の流れを称賛してパロディや偶然性を引き継いだシュルレアリスムへとアーティストは移行していった。シュルレアリスムの祖アンドレ・ブルトンは、オートマティスムと夢の記述は文学創作において偉大な役を演じると主張した。彼はオートマティスムを使って小説『ナジャ』を書き、説明のかわりに写真を使うことによって、彼が常々批判していた過剰な説明をしたがる作家たちをパロディにした。ルネ・マグリットの重要な実験はジャック・デリダやミシェル・フーコーによって引用された。フーコーはまた、多くのポストモダン作家に直接影響を与えた最も重要な作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスからの引用も行った。ボルヘスが創作を始めたのは1920年代だが、彼はポストモダン作家として分類されることがある。彼のメタフィクションとマジックリアリズムの実験は、英米ではポストモダンの時代まで十分に理解されなかった。

モダニズム文学との比較
モダニズム文学もポストモダン文学も19世紀リアリズムからの決別を意味している。特質をいうなら、モダニズム文学もポストモダン文学も主観主義を追い求めることである。ヴァージニア・ウルフやジェイムズ・ジョイスの文体、T・S・エリオットの詩『荒地』などに見られるように、多くのモダニストによって描かれた「意識の流れ」は、外部のリアリズムから内部の意識の状態への転換を意図している。さらに、モダニズム文学もポストモダン文学も同様に物語、性質、構造の断片によって追求している。『荒地』は度々モダニズム文学とポストモダン文学の際立った特徴をもっていると位置付けられる。詩はポストモダン文学の中でも特に文体模倣や断片が多くみられ、『荒地』の語り手は「私を支える断片は、私の滅亡に対抗する」と言っている。モダニストの文学は断片を用いて、実存主義の危機やフロイト派の内的矛盾を主観的に探求し、問題を解決すべく、その問題に取り組んでいたといわれている。一方ポストモダニストは、この混沌は乗り越えられないことを証明している。彼らの主張は、「破滅」に対抗する訴えだけが混沌から免れるのだということである。遊び心は多くのモダニストの作品にみられ(例えばジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やバージニア・ウルフの『オーランド』)、ポストモダニズムと非常に類似しているが、ポストモダニズムはより遊び心が中心的になり、物語の状況や意味性を明確にしない。

ポストモダンへの転換
文体に関する時代区分がすべてそうであるように、ポストモダンの興隆と衰退の明確な日付をいうことはできない。しかし大雑把には、アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスと英国の作家ヴァージニア・ウルフが死んだ1941年がポストモダンのスタートラインだといわれることがある。いずれにせよ《ポスト》という接頭辞は、必ずしも新しい時代を意味するわけではない。むしろ第二次世界大戦勃発におけるモダニズムへの反対表明を意味する(人権差別、成立したばかりのジュネーヴ協定、広島と長崎への原爆投下、ホロコースト、ドレスデン爆撃、東京大空襲、そして日系アメリカ人の強制収容など)。そして戦後の重要な出来事への関心でもある。冷戦、アメリカの市民権運動、ポストコロニアリズム(ポストコロニアリズム文学)、そしてパーソナル・コンピュータの始まりなどである(サイバーパンク小説、ハイパーテクスト小説)。ポストモダン文学の出発として議論される最初のものは、注目を集めた重要な出版物や出来事などである。例えばポストモダンの始まりを予感させる最初の出版物は1949年のジョン・ホークス『人食い』、演劇では1953年の『ゴドーを待ちながら』、それから1956年の『吠える』や1959年の『裸のランチ』などである。その他の始まりを示す重要なものに批評理論がある。ジャック・デリダの1966年の講義『構造・記号・遊戯』や少し遅れてアイハブ・ハッサンの1971年の『The Dismemberment of Orpheus(オルフェウスの切断)』の扱いなどである。この転換についてブライアン・マクヘイルは主要論文で詳細に説明している。ポストモダンの仕事はモダニズムから発展し、モダニズムは認識論的な優勢によって特徴付けられ、ポストモダンは存在論の疑問に端を発している。

戦後の発展と形式の変化
ポストモダン文学は同じ時代に書かれた作品についてあまり言及しないにも関わらず、様々な戦後の興隆(不条理演劇、ビート・ジェネレーション、マジックリアリズムなど)は見逃せない類似点をもっている。それらの発展はときおりまとめて《ポストモダン》と言われる。一般的には重要人物(サミュエル・ベケット、ウィリアム・S・バロウズ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、ガブリエル・ガルシア=マルケス)がポストモダンへの貢献者だとされている。ジャリによると、アントニ・アータウドやルイージ・ピランデッロらシュルレアリストは、不条理演劇によって演劇界に影響を与えた。不条理演劇は1950年代の演劇の傾向を説明するためにマーティン・エスリンによってつくられた言葉で、アルベール・カミュの不条理性を受け継いだものである。不条理演劇は多くの点でポストモダンに類似している。例えば、ウジェーヌ・イヨネスコ『禿の女歌手』は国語の教科書の台詞の寄せ集めである。もう一人、不条理でありポストモダンであるといわれる作家で最も重要なのが、サミュエル・ベケットである。サミュエル・ベケットの作品はしばしばモダニズムからポストモダンへの転換点であるといわれる。彼はジェイムズ・ジョイスと友人であり、モダニズムに非常に近い存在であり、いずれにせよ、彼の業績はモダニズムからの発展を形作ったのである。モダニズムのお手本ともいうべきジョイスは言語の可能性を追求した。ベケットは1945年、ジョイスから逃れるために、言葉の貧困と落伍者たちに焦点をあてなければならないということに行き着いた。後期の作品ではさらに、演じることだけに徹する不可避的な人間関係の中で、主要人物の魅力を引き出した。ハンス=ペーター・ワーグナーが言ったように、「ほとんど彼は小説の可能性のためにやっていた」(人物のアイデンティティ、明確な意識、言語の持つ力、文学の独自性)ベケットは、小説や演劇において語りや人物の崩壊といった実験的物語が評価され、1969年にノーベル文学賞を受賞した。1969年以後に出版されたベケットの作品は、過去の作品を引き合いにして読解することを必要とするものや、形式やジャンルを脱構築するメタ文学がほとんどである。彼の生前に出版された最後の作品『Stirrings Still』(1988年)は、彼の過去の作品の模倣と繰り返しのモザイクによるテクストで、演劇と文学と詩の壁を破壊した。彼は物語の論理的な一貫性や上品なプロットや通常の時間の流れや心理的な描写が依然として続いていたフィクションの中で、明確にポストモダンの父としての役割を果たしたのだ。《ビート・ジェネレーション》は、1950年代の物質主義的なアメリカに不満を抱く若者のために、ジャック・ケルアックによって名付けられた。ケルアックは、彼が《流麗な散文》と呼んだオートマティスムの発明によって、巨大な叙事詩を作り出し、それはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の型から影響を受け、『Duluoz Legend』(ドゥルーズ伝)と呼ばれている。《ビート・ジェネレーション》はもっと大雑把に、《ブラック・マウンテン詩》やニューヨーク・スクールやサンフランシスコ・ルネサンスらを総括して呼ばれる。それらの作家は時折《ポストモダン》に分類される。しかしながら今では一般的にそれらの作家は《ポストモダン》と呼ばれないが、影響力は計り知れず、このグループ(ジョン・アッシュベリー、リチャード・ブローティガン、ギルバート・ソレンシオらその他多く)と関係がある多くの作家は度々ポストモダン作家として分類される。ポストモダン作家に分類され、ビートジェネレーションともいわれる最大の作家はウィリアム・S・バロウズである。バロウズは『裸のランチ』を1959年にパリで、1961年にアメリカで出版した。これは最初の真のポストモダン小説だといわれる。断片的で、中心となるストーリーはなく、SFや探偵小説など大衆小説の要素を詰め込んだパスティーシュであり、パロディやパラドクス、言葉遊びなどが満載だったからである。バロウズはまた、ブライオン・ガイシンと共に《カットアップ》の創始者といわれる。この技法(ツァラのダダイストの詩と似ている)は、新聞やその他出版物から単語やフレーズを切り取り、新たなメッセージに置き換える。彼はこの技法を『ノヴァ急報』や『爆発した切符』で実践している。

マジックリアリズムは、ラテンアメリカの作家によって特に有名で(そして彼らのひとつのジャンルだとも考えられる)、神秘的な要素を日常的なものとして扱う技法である(ガブリエル・ガルシア=マルケス『翼を持った老人』における明確な天使の姿に対する現実的な扱いと徹底したさり気なさの例)。この手法は民話がもとになっていて、ラテンアメリカ《ブーム》の中心的な存在になり、ポストモダンへとつながっている。《ブーム》の有名人やマジックリアリズムの専門家(ガブリエル・ガルシア=マルケス、フリオ・コルタサルなど)はよくポストモダン作家だと分類される。しかしながらこの呼び方は問題がないわけでもない。ラテンアメリカのスペイン語話者の間でいうモダニスモやポストモダニスモは、英語圏のモダニズムやポストモダニズムとは直接関係のない20世紀初頭の文学に影響されている。オクタビオ・パスは、ポストモダンは、ラテンアメリカの文化とは相入れない壮大な文学的外来種だと主張した。ベケットとボルヘスに加えて、転換期の人物だとよく言われるのはウラジーミル・ナボコフである。ベケットとボルヘスのように、ナボコフもまたポストモダンが始まるより前に活動を始めた(ロシア語で1926年、英語で1941年)。しかし彼の最も有名な小説『ロリータ』(1955年)は、モダニズム、もしくはポストモダニズムだといわれる。彼の後の作品(とくに『青白い炎』(1962年)や『アーダ』(1969年))はより明確にポストモダン的である。

範囲
文学におけるポストモダンは、中心的な人物によってつくられた運動ではない。それゆえ、ポストモダンがいつ終わったか、もしくはいつ終わるのかを定義することは難しい(モダニズムにおいてはジョイスとウルフの死がその終わりだといわれることがある)。1961年の『キャッチ22』、1968年の『びっくりハウスの迷子』、1969年の『スローターハウス5』、1973年の『重力の虹』などの出版物にように、ポストモダンのピークは1960年代と1970年代であることは間違いない。レイモンド・カーヴァーによって代表される新しい潮流がポストモダンを終わらせたという意見もある。1989年の『Stalking the Billion-Footed Beast』においてトム・ウルフは、ポストモダンにとってかわる新しい重要な小説のリアリズムだと言われている。この新しいリアリズムにおいて、1985年の『ホワイトノイズ』や1988年の『悪魔の詩』がポストモダン期最後の偉大な小説だと言われている。新しい世代の作家、デヴィッド・フォスター・ウォレス、ジアニーナ・ブラッチ、デイヴ・エガーズ、マイケル・シェイボン、チャック・パラニューク、ジェニファー・イーガン、ネイル・ガイマン、リチャード・パワーズ、ジョナサン、レセム、そして出版物『マクスウィニーズ』、『ビリーバー』、そして『ニューヨーカー』の小説欄は、ポストモダン、もしくは全く別の何か―《ポスト・ポストモダン》のいずれかの新しい章を予告する。

日本におけるポストモダン文学[編集]
日本におけるポストモダン文学は1980年代に始まり、最初の作品として1980年の文藝賞受賞作品、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が挙げられることが多い。消費生活を享受する女子大学生の日常を描きながらの、文中に登場する香水、ミュージシャン、レストランなどについての膨大で詳細な注釈は斬新なものとして受け止められた。

1981年には、高橋源一郎が現代詩のコンテクストを持つ『さようなら、ギャングたち』でデビュー、群像新人長編小説賞の優秀作に選ばれた。1983年にはロシア文学に造詣の深い島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビューし、芥川賞候補になる。この2人は長く日本の純文学を牽引していった。1984年には歌舞伎に造詣の深い小林恭二が『電話男』でデビューし、海燕新人文学賞を受賞した。1994年には笙野頼子が『タイムスリップ・コンビナート』で芥川賞を受賞し、以後フェミニズムを主題に日本のポストモダン文学の一翼を担った。

アメリカ合衆国のポストモダン文学 超大物のピンチョンはおいておく!

ポップカルチャーの発祥地とも言えるアメリカ合衆国では、やはり、ポップと文学の融合というような特色が濃く見られる。「スリップストリーム」(主流文学と通俗文学の境界解体)、「アヴァン・ポップ」(前衛文学とポップカルチャーの融合)という潮流があった。フィリップ・K・ディック、カート・ヴォネガット(SF小説と純文学の融合)や、ポール・オースター(探偵小説と純文学の融合)などがこの流れの代表的存在である。

2017年10月20日金曜日

緑の家(抄)

チカイスにてアグアルナ族の子供狩り(女の子だけ)をシスターの指示のもと治安部隊がおこなう サンタ・マリーア・デ・ニエバに連れてこられたインディオの集団脱走がおこる

2017年10月5日木曜日

ディカニカ夜話(抄)



 チチコフ
詐欺師にして本書の主人公
  1. マニーロフ 冷淡な男。
  2. コローボチカ 知性に欠けるが神経質な女地主。
  3. ノズドーリョフ 乱暴な博打打ち。
  4. サバケーヴィチ 貪欲な男。
  5. ブリューシキン 吝嗇漢。 => この順に農奴を買って回った


ディカーニカ近郷夜話 前篇 02 はしがき(新字旧仮名、作品ID:47123)
ディカーニカ近郷夜話 前篇 03 ソロチンツイの定期市(新字旧仮名、作品ID:47124)
ディカーニカ近郷夜話 前篇 04 イワン・クパーラの前夜(新字旧仮名、作品ID:47125)    
ディカーニカ近郷夜話 前篇 05 五月の夜(または水死女)(新字旧仮名、作品ID:47126
ディカーニカ近郷夜話 前篇 06 紛失した国書(新字旧仮名、作品ID:47127)
ディカーニカ近郷夜話 後篇 01 はしがき(新字旧仮名、作品ID:47128)
ディカーニカ近郷夜話 後篇 02 降誕祭の前夜(新字旧仮名、作品ID:47129)     
ディカーニカ近郷夜話 後篇 03 怖ろしき復讐(新字旧仮名、作品ID:47130)     
ディカーニカ近郷夜話 後篇 04 イワン・フョードロヸッチ・シュポーニカとその叔母(新字旧仮名、作品ID:47131)     
ディカーニカ近郷夜話 後篇 05 呪禁のかかつた土地(新字旧仮名、作品ID:47132)