2016年10月14日金曜日

トルストイと白樺派

レフ・トルストイ(1828年 - 1910年)は、帝政ロシアの小説家、思想家である。
フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと
並んで19世紀ロシア文学を代表する文豪。英語では名はレオとされる。
代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、
政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。

(1905年:日露戦争後の第一革命 1917年:二月革命から十月革命へ)

生涯 トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれる。
祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、
1830年、2歳のとき母親を亡くす。1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都である
モスクワへと転居するが、同年6月に父親をなくし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、
父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザンに住む叔母に引き取られ、
1841年にはカザンへと転居した。1844年にカザン大学東洋学科に入学するが、舞踏会などの社交や
遊興にふけって成績はふるわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、
1847年にカザン大学を中退した。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。
1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、
農民に理解されず失敗。モスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ったのち、
1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入される(コーカサス戦争)。この時の体験は後年
『コサック(英語版)』や『ハジ・ムラート(英語版)』や『コーカサスの虜(ロシア語版)』などに
反映された。1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代(英語版)』がネクラーソフの
編集する雑誌『現代人』に発表され、新進作家として注目を集める。
1853年のクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリで激戦の中に身をおく。
セヴァストポリの戦いでの体験は『セヴァストポリ物語(英語版)』(1855)などに結実し、
のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。
退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に
関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行なった。ヴァイマルを訪れた際の逸話が
トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(独: Goethe und Tolstoi, 1923年)に記されている。
パリ滞在中には公開処刑を目撃し、物質文明に失望している。帰国後、アレクサンドル2世に
よる1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みるが、十分には成功しなかった。
1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたる。
強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針であった。 翌1860年から1861年に、
教育問題解決のため再び西欧に旅立った。この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、
新作『レ・ミゼラブル』を激賞している。他にもディケンズやツルゲーネフを訪問した。
1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、
地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職する。同年、活動を危険視した官憲の妨害により
学校は閉鎖のやむなきに至ったが、教育への情熱は生涯変わらなかった。同年34歳で
18歳の女性ソフィア(英語版)と結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を
定めることになる。夫婦の間には9男3女が生まれた。幸福な結婚生活の中で世界文学史上に
残る傑作が書かれた。トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を
現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義
(仏: Realisme)の手法を用いている。
『コサック』(1863年)では、ロシア貴族とコサックの娘の恋愛を描きながら、
コサックの生活を写実主義の手法によって描写した。1863年7月18日にヴァルーエフ
指令が公布されてウクライナ語での言論活動が禁じられた為、コサックが母語で文筆活動を
行なえない皮肉な状況になった。
『戦争と平和』(1864-69)はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々(1812年の祖国戦争)
を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物が写実主義の手法によって
みな鮮やかに描き出されている。『戦争と平和』の主人公ピエール・ベズーホフにも
トルストイ自身の思索が反映している。『戦争と平和』で、トルストイはロシアの貴族社会のパノラマを描き出した。
『アンナ・カレーニナ』(1873-77)は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、
『戦争と平和』に比べより調和に富み、構成も緊密である。『アンナ・カレーニナ』では、
社会慣習の罠に陥った女性と哲学を好む富裕な地主の話を並行して描くが、地主の描写には
農奴とともに農場で働き、その生活の改善を図ったトルストイ自体の体験が反映している。
小説の主人公アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリア(ロシア語版)で、
トルストイは1868年に出会っている。パンジーの花飾りや真珠のネックレスを描いた彼女を
描写する一節は、トルストイ博物館に収蔵される肖像画と全く同じである。トルストイは
また社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。
援助資金を調達するために作品を書いたこともある。一方『アンナ・カレーニナ』の執筆とほぼ並行して、
初等教育の教科書作成にも力を注いでいる。

世界的名声を得たトルストイだったが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに
苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、
山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後
作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった(トルストイ運動)。
その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を
否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていた
ロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。
また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。
そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた。
上記の「回心」後は、『イワンのばか』(1885)のような大衆にも分かりやすい民話風の作品が書かれた。
戯曲『闇の力(英語版)』(1886)は、専制政治強化を主導していたコンスタンチン・ポベドノスツェフの
圧力によって1902年まで公的な上演が禁止されていた。しかし、実際には地下活動によって数回、
非公式の形で上演された。そういった圧力が強まる中で『人生論』(1887)など、
道徳に関する論文が多くなる。小説も教訓的な傾向の作品が書かれるようになる。
『イワン・イリイチの死(英語版)』(1886年)、『クロイツェル・ソナタ』(1889)などがそれにあたる。
『イワン・イリイチの死』では、死を前にした自身の恐怖を描き出している。
1891年から1892年にかけてのロシア飢饉(英語版)では、救済運動を展開し、世界各地から
支援が寄せられたが、政府側はトルストイを危険人物視し、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった。
『神の国は汝らのうちにあり(英語版)』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。
『芸術とは何か(英語版)』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のための
ものだとして、その意義を否定した。
その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない[16]。 一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られる。またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒であった。瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。
作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった[17]。 1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判した。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[18]。 その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[19]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅(ru))で下車した。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがある。

トルストイは存命中から人気作家であっただけでなく、ガルシン、チェーホフ、コロレンコ、ブーニン、
クプリーンに影響を与えた。トルストイの影響は政治にも及んだ。ロシアでの無政府主義の展開は
トルストイの影響を大きく受けている。ピョートル・クロポトキン公爵は、ブリタニカ百科事典の
「無政府主義」の項で、トルストイに触れ「トルストイは自分では無政府主義者だと名乗ら
なかったが……その立場は無政府主義的であった」と述べている。
ソ連時代も共産党から公認され、その地位は揺るがなかった。 ウラジーミル・レーニンが愛読者で
あったことは知られている。トルストイは、革命後ソ連で活動したミハイル・ショーロホフ、
アレクセイ・トルストイ、ボリス・パステルナークをはじめ多くの作家に影響を与えている。
またアメリカで活躍したウラジミール・ナボコフはトルストイの特異な技法に注目しながら、
ロシア作家中で最高の評価を与えている。
宗教思想について本格的に論じられるようになるのはペレストロイカ以降である。
また、トルストイの教科書をもとにした教科書がペレストロイカ後に出版されている。

西欧においては1880年代半ばには大作家としての評価が定着した。またロマン・ロラン、
トーマス・マンらがトルストイの評伝を書き、マルタン・デュ・ガールが1937年ノーベル賞
受賞時の演説でトルストイへの謝意を述べるなど、その影響は世界各国に及んでいる。
一方トルストイの非暴力主義にはロマン・ロランやガンディーらが共鳴し、
ガンディーはインドの独立運動でそれを実践した。
 
( 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年慶応3年) - 1916年大正5年)
 永井荷風 1879年明治12年) - 1959年昭和34年)
 谷崎潤一郎 1886年明治19年) - 1965年昭和40年)
 芥川龍之介 1892年明治25年) - 1927年昭和2年) 晩年には志賀直哉の
     「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある
     自己の文学を完全否定する 
 川端康成 1899年明治32年) - 1972年昭和47年)
 松方コレクションは、実業家松方幸次郎大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)
 にかけて築いた美術品コレクションのこと。近代絵画と浮世絵が中心。
 1917年 ロシア革命成功 1918年 ドイツ革命挫折 
 1919年 ワイマール共和国とコミンテルンの成立
 1923年 ヒトラーのミュンヘン一揆 1923年 関東大震災 1929年 世界第恐慌
 1931年 満州事変 1932年 515 1936年 226 )

白樺派の概略 大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、
理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって
1910年代の文学の中心となった。1910年刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。
そのきっかけは1907年10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼の旅館東屋で武者小路実篤と
志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している。
学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、雑誌刊行の準備を
整えたという。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも
『白樺』以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。
彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する
武士像や明治の精神への反発からである。
さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号・俳号の類を用いなかった。
特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、
その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。
写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、
郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、
雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。
武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。多くは学習院出身の上
流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。

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